以前、金沢八景~文庫の散歩コースを当ブログで紹介しました👉 金沢八景~文庫散歩
今回は、そのコースで立ち寄る場所について、さらに詳細な情報をお届けします。今日は3回目になりますが、「円通寺客殿と権現山」になります。
今は円通寺自体はなくなりましたが、かつてを偲ぶ客殿が再現されており、その背後に徳川家康と関連がある権現山が控えます。
円通寺
金沢八景駅のホームからこの茅葺屋根の家が見えます。こちらは日輪山円通寺という天台宗寺院の遺構です。この奥の一段高いところに東照宮がありました。この地の代官であった八木次郎右衛門が東照大権現(徳川家康)を祀ったもので、円通寺はその別当寺でした。
その後、金沢領主の久世大和守広之が御料地を奉納。それをもとに歴代住職によって「円通寺新田」の開発が続けられ、幕末期には3ヘクタールほどに拡張されています。
茅葺の建物は、円通寺の客殿で奥座敷の長押しの釘隠しは「三つ葉葵」で飾られ、三代将軍・家光が使ったという手あぶり火鉢などが伝えられています。
ですが、明治維新の神仏分離令によって円通寺は廃寺となります。それに伴い東照宮は明治11年(1878)に瀬戸神社へ合祀されました。
下の写真は客殿内部です、見学可能です。
家康との関連
ここに何故東照宮が祀られていたかといえば、むろん徳川家康との関連性が問われますが、この地に関ヶ原合戦の前に立ち寄ったことが大きな要因です。
豊臣秀吉の死後、最大実力者となった家康が、慶長5年(1600)会津の上杉景勝討伐の為に5万5千の大軍を率いて6月16日に大坂を出発しました。江戸に向かう途中、家康は江ノ島や鶴岡八幡宮に参詣し7月1日に金沢を訪れ宿泊します。家康は会津への行軍を急がず、むしろゆるゆると進んでいた感さえあります。これは、大坂を留守にした際に、反家康側の武将たちが挙兵することを予測して、絶えず背後を注視しながら進軍したためと言われています。
家康が江戸を経て小山(栃木)に着陣したのが7月24日の事。西軍の挙兵を知るや直ちに引き返し、9月15日の関ヶ原での決戦に挑み、勝利しました。金沢に立ち寄った後に家康が勝利を収めたことを祝し、代官が東照宮を作ったという事です。
権現山の遊園地
東照宮が鎮座していたことから、円通寺の裏山であるこの地を「権現山」と呼んだのです。金沢の入江に近い高台なので、九覧亭などとともに金沢探勝の絶好の展望地でした。
昭和5年、湘南電鉄(現京浜急行)が開通したころの観光案内書に、権現山についての記述があります。そこには「金沢文庫駅~金沢文庫~称名寺~金沢園~野島~琵琶島弁天~瀬戸明神~九覧亭~権現山遊園地~金沢八景駅」を遊覧のモデルコースに推進しており、権現山には「所々に休息所を作って無料で案内やお茶をサービスしている」とあります。眺望がとてもよく、金沢に住んでいる人たちの憩いの場(遊園地)であったことが偲ばれます。
では。
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