以前、金沢八景~文庫の散歩コースを当ブログで紹介しました👉 金沢八景~文庫散歩
今回は、そのコースで立ち寄る場所について、さらに詳細な情報をお届けします。今日は4回目になりますが、「野島」になります。
野島へ行くには、金沢八景駅から「平潟湾プロムナード」をひたすら歩きます。
海辺沿いをシーサイドラインと並行しながら歩くのは、とても気持ちが良いですよ♪
古代人の楽園だった野島
野島山の標高は57m、大昔は金沢の沖に浮かぶ孤島でした。4千年ほど前からの海退現象により、海面が低下をはじめ、その際に発生した砂州はやがて次第に南方向へ伸び、ついには野島と陸続きになりました。その時期を縄文時代晩期(2500年ほど前)とする研究報告があります。
昭和20年代、野島山の頂上付近から横浜市内最古の貝塚が見つかり、出土した約7千年前の深鉢型土器などは「野島式土器」と呼ばれます。
貝塚の中から30余種の貝塚、シカ、イノシシ、イルカ、ゴンドウクジラ、クロダイなど十数種の獣魚骨、鹿角でつくった釣り針やモリなどの漁労具、そして狩猟用と思われる家犬の骨も発見されています。
野島は温暖な気候であり、外敵に襲われる心配もほとんどありません。しかも海の幸・山の幸に恵まれ、古代人にとってまさに楽園だったのでしょう。金沢付近には「日本最古」とされる夏島貝塚(横須賀市)をはじめ、青ヶ台貝塚、称名寺貝塚、楽王寺貝塚など古代人が豊かに暮らした生活の跡が各所に残っています。
野島の漁業
江戸時代から、東京湾は海域が狭いため、漁業資源の保護問題が常に深刻化していました。文化13年(1816)には、沿岸44ヵ浦の漁民が集まり漁場の範囲や漁具・漁法などを細かく取り決めています。そこでは漁獲の方法を38種に限定し、それ以外の漁法を固く禁じます。それでも各村の専用漁場や漁場を巡る紛争は後を絶えず、他村の漁場で操業するときは、漁法、魚種、入漁料等について細部にわたる契約が結ばれていました。
漁法は、各村によって特色がありました。大正14年の資料によって野島と隣村の柴を比べると、その違いは歴然としています。
柴の漁法は、打瀬網や手繰網など「網を使った漁」に限られ、漁場は柴地先の海が主体でした。これに対し野島の漁法には網の漁はありません。すべて延縄と一本釣りの「船釣り」で、北は本牧沖・南は横須賀沖・東は富津方面まで広範囲に出漁していました。
その野島の漁法も、時代の流れとともに変化します。ノジマの漁師たちは遊漁船を操り「東京湾の遊漁船基地・金沢八景」の中核をなしています。また金沢名産の海苔養殖やアナゴ漁も見違えるほどに近代化が進みました。大規模に築港された金沢漁港を拠点に、野島の漁業はますます盛んです。
野島公園
野島公園内には様々な名所があります。
この山には戦時中「掩体壕」が作られました。戦時中の海軍航空隊の格納庫跡ですが、風光明媚なこの野島の地も、戦争の爪痕が残っているんですね…。
旧伊藤博文金沢別邸です。
伊藤博文がこの金沢の地に別荘を築き、明治憲法の起草などもこの地で行われています。
茅葺きの木造家屋、大正天皇や裕仁親王(昭和天皇)、韓国皇太子なども訪れています。
(別途項目を設けてお話しします)
野島公園は、紫陽花がとても綺麗な場所でもあります。
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