以前、散歩についてこのブログで触れると書きましたが、今回はその第1回目です。
神奈川県横浜市南部の金沢区にある「金沢八景~文庫及び八景島」のコースをご紹介したいと思います。このエリアは風光明媚で、江戸時代には観光地としても人気がありました。寺社などの歴史的な史跡が多く、海も近く自然が豊かです。また、一大観光地の八景島シーパラダイスなどもあり、見どころが多い場所です。
主なコース 金沢八景駅~円通寺客殿・権現山~瀬戸神社~琵琶島弁財天~平潟湾プロムナード~染王寺~野島公園~旧伊藤博文金沢別邸~海の公園~称名寺~金沢文庫(博物館)ここから先は 1⃣~龍華寺~明治憲法起草の地~金沢八景駅終了 2⃣~八景島
見づらい地図で申し訳ない…(-_-;)
円通寺客殿・権現山
金沢八景駅からスタートします。
まずは、駅からすぐ近くにある「円通寺客殿と権現山」です。
廃仏毀釈運動で廃寺になった円通寺の客殿が茅葺屋根で存在します。
この円通寺には、かつて東照宮も鎮座していました。この地の代官であった八木次郎右衛門が、東照大権現である徳川家康を祀っており、円通寺はその別当寺でした。家康が関ヶ原の合戦前にこの地に立ち寄り、その勝利を祈願して建立されたのだそうです。
東照宮は円通寺の客殿の奥、一段高いところに鎮座していました。
また、東照宮が鎮座していたことから、円通寺の裏山は「権現山」と呼ばれています。金沢の入江に近い高台に位置するため、金沢探勝には絶好の展望地だったようです。
瀬戸神社と琵琶島弁財天
金沢八景駅からすぐ近くに、瀬戸神社と枇杷島弁財天があります。この二つの神社は、それぞれ源頼朝と北条政子によって創建され、国道16号を挟んで向かい合う位置にあります。
☆ 瀬戸神社
今から約800年前の治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵後に鎌倉に本拠を構えた際、鬼門の守りとして伊豆三島明神を勧請したとされています。古くは「瀬戸三島大明神」とも呼ばれていました。このあたりは「六浦湊」と呼ばれ、鎌倉時代から室町~江戸時代にかけて交易や遊覧の地として賑わっており、瀬戸神社周辺はその中心地でした。
☆ 琵琶島弁財天
国道16号線を挟んだ対面に、夫である源頼朝が瀬戸神社を創建しました。一方、妻の北条政子もこの地に近江の竹生島弁才天を勧請し、琵琶島弁財天を建立しました。祭神はイチキシマヒメで、立ち姿から「立身弁財天」とも呼ばれ、昔から立身出世の弁天様として信仰されています。弁才天はもともと水の神様で、海上の安全などを司っていましたが、いつしか音楽や学芸の守護神、また福徳の神としても信仰されるようになりました。
この瀬戸神社と琵琶島弁財天が国道16号線を挟んで対面に位置しているため、車が多く行き交う道路が夫婦仲を引き裂いているように感じられます。
平潟湾プロムナード~野島公園
瀬戸神社と琵琶島弁財天からシーサイドライン沿いに海側を歩くと、平潟湾プロムナードという場所に沿って進むことになります。海風がとても気持ち良いです♪
野島公園のある野島に差し掛かります。野島は、もともとは金沢沖に浮かぶ孤島でしたが、約4千年前からの海退現象で海面が低下し、次第に陸続きとなったと考えられています。おそらく縄文時代晩期のことです。昭和20年代には、野島山の頂上付近で横浜市最古の貝塚が見つかり、出土した約7千年前の深鉢型土器などは「野島式土器」と呼ばれています。野島は外敵に襲われにくく、古代人が豊かに生活を営んでいたようです。
江戸時代の野島では、多くの人が漁業を営んでいましたが、漁業資源の保護問題が常に深刻でした。文化13年(1816年)には、沿岸44ヵ浦の漁民が集まり、漁場の範囲や漁具・漁法などを詳細に取り決めました。漁獲の方法を38種に限定し、それ以外の漁法は固く禁じられていたそうです。漁法には各村ごとに特色がありました。例えば、野島の隣村である柴では、打瀬網や手繰網などの「網を使った漁」に限定され、漁場は柴地先の海が主体でした。これに対し、野島では網漁は行われず、すべて延縄と一本釣りの「船釣り」で、北は本牧沖、南は横須賀沖、東は千葉の富津方面まで広い範囲に出漁していました。
現在の漁法は遊漁船によるもので、「東京湾の遊漁基地・金沢八景」の中核をなしています。また、金沢名産の海苔養殖やアナゴ漁も近代化が進み、野島の漁業はますます盛んです。
ここから野島公園に入ります。
旧伊藤博文別邸
野島公園内には、初代内閣総理大臣である伊藤博文の別邸跡があります。内部も見学可能です。
明治31年(1898年)に建てられた茅葺き数寄屋根の田舎風海浜別荘です。明治中頃、この金沢区一帯は東京近郊の海浜別荘地として注目され、松方正義や井上馨などが別荘を設けました。しかし、明治後期には同じ神奈川県内の大磯や葉山など湘南地方が別荘地として栄え、金沢はその役割を終えます。この金沢別邸は、当時の別荘地に残る数少ない貴重な建築遺構です。
この野島公園から、海の公園へ歩きます。ひたすら長い海岸線に公園があります。
称名寺
海の公園から山側に入り、称名寺へ向かいます。
称名寺は、北条実時が別邸としてこの地に居を構え、亡き母の七周忌に際して邸内に小さな持仏堂を建てたのが始まりのようです。次第に僧侶を住まわせるなどして、独立した寺院となっていきました。当初は念仏の寺院でしたが、やがて真言律宗に改宗し、それ以降目覚ましい発展を遂げます。
実時の跡を継いだ顕時から、その次の貞顕の頃には、称名寺は七堂伽藍を構える大寺院に発展しました。全国からの学僧も増え、寺領も房総各地をはじめ、遠く因幡までに及んだと言われています。特に三代目の貞顕は、京都の六波羅探題を経て第15代執権に任命された人物で、この頃が金沢氏や称名寺の全盛期でした。
しかし、金沢北条氏は、鎌倉幕府の滅亡と時を同じくして崩壊しました。元弘3年(1333年)5月、新田義貞の鎌倉攻めにより四代貞将は討ち死にし、貞顕は葛西ヶ谷の東勝寺で北条高時とともに自害して果てました。北条氏の滅亡によって庇護者を失った称名寺は急速に衰退しました。
江戸時代、さらには大正時代に入っても荒廃は止むことがなく、昭和47年(1972年)にようやく復元が検討され、昭和53年(1978年)から約10年をかけて復元作業が進められました。
金沢文庫
称名寺の中に、トンネルがあり、そこを抜けていくと金沢文庫があります…。
金沢北条氏の初代である北条実時は、幕府の評定衆を務めていましたが、病気がちであったため、建治元年(1275年)に職を辞して金沢に引きこもりました。学問を好んだ実時は、長年にわたって集めた和漢の書を多数所蔵しており、引退に際してこれらの蔵書を収蔵するための建物を作ったのが金沢文庫の始まりとされています。書庫を建てた場所は、実時の邸宅から小山を越えた西隣の谷で、自宅と文庫の間にはトンネルを掘って行き来していたと言われています。
これは、鎌倉に住んでいた時、大切にしていた蔵書が二度も火災で焼失してしまったことが要因のようです。その防火対策として、素掘りのトンネルを作り、その奥に金沢文庫を建てたとされています。このトンネルは、現在も素掘りトンネルとして残っています。
実時の没後も、書物の収集や学問の研究は子孫に引き継がれ、金沢文庫の名は全国に広まりました。訪れる武将や文人も増え、「徒然草」の著者・兼好法師もその一人です。金沢文庫は単なる図書館としてだけではなく、講座を開くなど「金沢学校」としての活動も行っていました。称名寺には100名以上の学僧が常住していたこともあり、金沢は鎌倉幕府の文教の地として知られていました。
しかし、北条氏の滅亡によって支援者を失った文庫は急速に衰退します。貴重な蔵書も、上杉憲実や北条氏康、徳川家康らによって持ち出されてしまったといいます。
金沢文庫の復興への第一歩は、明治30年(1897年)に伊藤博文や横浜の実業家・平沼専蔵らによって始められました。昭和5年には、神奈川県が昭和天皇即位の大典記念事業の一つとして、図書館と博物館の機能を持つ金沢文庫を復興しました。平成2年(1990年)には、再び実時が創建した場所(文庫ヶ谷)に新装開店しました。現在の文庫には約2万点に及ぶ古書、古文書、美術工芸品が所蔵され、このうち国宝や重要文化財が百余点に及んでおり、資料の大半は鎌倉時代のもので、中世史研究の一大宝庫とされているため、「東の正倉院」とも呼ばれています。
このあと、コースがいくつかに分かれます。
- 金沢文庫駅(京急)まで歩いて10分のコース。(帰宅するコース)
- 金沢八景駅まで歩き、龍華寺、憲法起草の地の石碑を見るコース(かなり長く歩く)
- 再び海側へ戻り、八景島シーパラダイスまで歩くコース(ここで打ち上げコース!)
ここでは、まず最初に八景駅まで戻るコースの紹介をします。
龍華寺
創建は、源頼朝が金沢八景に瀬戸神社を造営し、その神宮寺として六浦の山中に浄願寺を建立したことに始まります。室町時代中頃、浄願寺の住持・融弁上人が洲崎にあった光徳寺の住持も兼帯していましたが、光徳寺が廃絶し、浄願寺も兵火で焼失してしまいました。その後、明応8年(1499年)に融弁上人が浄願寺と光徳寺を併合し、現在地に龍華寺を創建したとされています。龍華寺は、真言宗御室派の準本山の格式を持つ名刹で、かつては末寺二十カ寺を数える大寺院でした。
ここからさらに金沢八景駅へ向かう途中には、明治憲法起草の地という碑があります。この辺りには料亭があり、そこで伊藤博文をはじめ、金子堅太郎や井上毅などが集まり、憲法起草の作業を行っていたそうです。
この界隈の平潟湾の眺めもとても美しいです。
こちらのコースは金沢八景駅まで歩いて終了です。結構歩くので、一緒に歩いた方たちはバテテいましたね…。
もう一つのコースは、八景島シーパラダイスへ行くコースです。
八景島シーパラダイス
八景島シーパラダイスのある八景島は、幕末の安政元年(1854年)1月16日、アメリカのペリー艦隊が2度目の来航の際に、7隻の軍艦が八景島付近の小柴沖に碇泊した場所です。前年には浦賀・久里浜付近に碇泊していたペリーは、今回は前年に渡した大統領国書の返答を求めて、江戸での応接を強く要望しました。幕府は江戸に来ることを拒み、この金沢の地を含めた江戸から離れた地での応対にこだわりました。
しかし、応接の場所が決まらないことに業を煮やしたペリーは、1月22日の初代大統領ワシントンの記念日にあたるこの日に、碇泊中の軍艦から祝砲を打ち放ちました。7隻の軍艦から100発以上という凄まじい数です。この祝砲はあらかじめ連絡を受けており、浦賀から神奈川までの各村々には触書が回っていましたが、轟音は江戸湾を圧して山々を揺るがし、予告を知らなかった人々は「戦争でも始まったのか」と恐怖におののいたことでしょう。
結局、幕府は譲歩し、横浜に応接所を決定しました。日米交渉は2月10日から始まり、4回の会談を経て、3月3日に日米和親条約12か条が締結・調印されました。
こういう歴史もある八景島ですが、現在はシーパラダイスで賑わい、水族館などの施設で賑わいます。
ここで食事も楽しめますので、時間をたっぷり使った後、シーサイドラインでの帰宅をお勧めします。八景島駅からの帰路は、上り方面では新杉田駅まで行き、そこからJR根岸線で横浜方面または大船方面へ、下り方面では金沢八景駅まで行き、京急で帰宅するルートが便利です。
八景島シーパラダイス内の写真をまとめたものです
写真のサイズがバラバラで見にくくて申し訳ありませんが、ぜひこのコースの参考にしていただければと思います。
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