散歩コース紹介 銀座(北側半分)

散歩コース紹介

散歩コースの紹介、第3回目です。

前回は銀座の南側(晴海通りから見て南側半分)を紹介しましたが(銀座(南側半分))、今回は北側半分のコースをお届けします。晴海通りの北側部分を歩くコースになります。

余談ですが、私が主催する散歩サークル「(仮称)歴史散歩サークル」では、今年の2月と3月に銀座の南側半分を歩きました。10月には北側半分の散歩を開催する予定です。

主なコース


数寄屋橋交番付近集合~銀座のオアシス(銀座駅)~セイコーミュージアム~和光・時計塔~銀座木村屋・山野楽器・教文館・ミキモト本店~銀座三越(ライオン像)~松屋銀座~銀座イトウや~銀座発祥の地碑~奥野ビル~幸稲荷~東映株式会社~銀座教会~宝童稲荷神社~有楽町駅解散

数寄屋橋交番から銀座の地下街へ

このコースでは有楽町駅ではなく、数寄屋橋交番の近くからスタートしています。

数寄屋橋交番

昭和57年(1982年)に建築家の山下和正氏の設計で完成しました。これは、建築家によるユニークな交番建築の先駆けとして注目を集めています。とんがり屋根が特徴的です。数寄屋橋交番自体の開設は警視庁創設の明治7年よりも古く、明治5年に設置された歴史のある交番です。

ここから真っすぐ晴海通りを歩いて行けばよいのですが、少し寄り道を。銀座線の駅がある地下に下ります。ここには「銀座オアシス」と名付けられた芸術空間があります。

銀座オアシス

1994年10月14日、昭和9年に銀座駅が開業して60年を迎えたことを記念し、銀座にふさわしい駅づくりを目指して、平山郁夫画伯がデザインしたステンドグラス「楽園」を中心に、周囲に泉を配した音と光で演出された芸術空間「銀座のオアシス」が設置されました。

ステンドグラス「楽園(銀座のオアシス)」 原画・監修:平山郁夫
東京メトロ日比谷線 銀座駅 改札外コンコース
1994年10月完成

地下街も見どころ有るんですよ、銀座は✨銀座線というか地下鉄生みの親の早川徳次の像です。

ここから地上に出て、セイコーミュージアムを見学します。予約制になります。

セイコーミュージアム

設立は1981年で、セイコー創業100周年の記念事業として「時と時計」に関する資料・標本の収集、保存、研究を行う機関として誕生しました。2020年には、創業者・服部金太郎の生誕160周年を迎える年に、服部金太郎が生まれ、起業して服部時計店を創業した街、墨田区向島から銀座へ移転しました。

銀座の顔が揃う晴海通り・銀座通り交差点付近

晴海通りと銀座通りの交差点付近は、銀座の象徴的存在の建物がずらりと並びます。

時計台で有名な和光をはじめ、あんぱんの木村屋総本店、音楽関係の山野楽器、貴金属のミキモト本店、書籍の教文館などの老舗の店や、銀座三越がどっしりとした存在感を醸し出しています。

和光

世界的な時計メーカー、セイコーの前身である「服部時計店」の社屋として完成しました。初代の時計塔は明治27年(1894年)に完成したもので、現在のものは昭和7年(1932年)に完成した2代目に当たります。塔の高さは約9メートルです。設計は「東京国立博物館本館」などの作品で知られる建築家の渡辺仁です。

営業時間中は、正時の45分前からウェストミンスターのチャイムが鳴り、毎時0分には時打ちの鐘が鳴ります。外壁は花崗岩貼りで、角地は優美なアールを描いています。重厚かつ気品ある佇まいです。

木村屋総本店

当初「文英堂」として明治2年(1869年)に創業しました。当初は新橋付近にありましたが、すぐに火事で焼失し、翌年には尾張町(銀座5・6丁目付近)の空家を借りて再スタートします。しかし、ここも明治5年の大火で焼失しました。銀座通りの煉瓦街が完成して間もない明治7年に、銀座4丁目の三越のある辺りに移り、半世紀の間店を構え続けました。

煉瓦家屋に店を開いた年に、酒種酵母で作られた「あんぱん」を売り出し、評判となりました。関東大震災後に現在の場所に落ち着きました。

山野楽器

創業は明治25年(1892年)で、会社設立は大正4年(1915年)です。初代社長は山野政太郎です。楽器の輸入代理店業も行っており、本社併設の銀座本店は、日本一公示地価が高い地にあることで知られています。2015年から銀座本店の正面入り口には、群馬県嬬恋村産のモミの木を使用したクリスマスツリーが登場し、クリスマスシーズンの銀座の風物詩となっています。

ミキモト本店

ジュエラーとして世界でも最大規模の広さを誇る、銀座4丁目の本店。2017年にリニューアルし、銀座の新たなシンボルへと生まれ変わりました。

アコヤ貝による養殖に世界で初めて成功した御木本幸吉が、明治32年(1899年)3月に銀座に御木本真珠店を設立しました。海外での販売も積極的に行い、“ミキモトの養殖真珠は本物か模造品か”とパリで争われた「パリ真珠裁判」に勝利した後、養殖真珠が世界中に広まり、現在「ミキモト・パール」の名は世界に知られています。

教文館

明治19年(1886年)に築地で創業し、銀座進出は明治20年代後半です。はじめはミキモト本店の隣に店がありましたが、震災後、銀座3丁目に拠点を持つ大地主・松沢八左衛門が所有する土地に、現在のビルが建てられました。

銀座三越と松屋の屋上に神社が

ここから続いては、三越と松屋という二大デパートに入ります。買い物するわけではなく(もちろんそれもいいが)、いずれの屋上に神社がありますのでそちらに行きます。

まず、三越です。三越の入口付近にはライオン像があります。

銀座三越

1914年に銀座に開店しました。伝統的な百貨店のスタイルを守りつつ、最新のファッションやライフスタイル商品を取り扱っています。ルネッサンス様式の威容を誇る日本橋三越本店の現在の建物は、昭和10年(1935年)に6年の歳月を費やして増築・改修されたもので、完成当時は「国会議事堂」や「丸ビル」に次ぐ大建築でした。なかでも、採光天井の下にフランス産赤斑大理石とイタリア産卵黄色大理石を張りつめた中央ホールは、花園のような美しさです。

平成28年(2016年)7月、本館が国の重要文化財に指定されました。

ライオン像

三越百貨店の基礎を築いたとされる当時の支配人、日比翁助。その日比が百貨店開設の準備のために欧米を視察した際に、イギリスで注文したものです。ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型取り、バルトンが鋳造したものです。

完成までに3年の歳月を要したこの仕事は、イギリスの彫刻界でも相当な話題となりました。現在では、その気品と店格を象徴し、三越の象徴的存在でもあり、また、東京名物の一つとしても親しまれています。

この三越の屋上に神社があるのです。

◇三囲神社(みめぐりじんじゃ)

墨田区向島にある「三囲神社」は三井家の守護神です。
「囲」が「(三)井」を囲んでいることから、「三井を守る」とも伝えられ、江戸時代から三井家に鬼門除けとして崇拝されてきました。
三井越後屋を継承する日本橋三越本店屋上に分霊が祀られたのは大正3年(1914年)9月21日。同年に発行されたPR誌「三越」には、当時の様子がこう記されています。

◇活動大黒天

日本橋三越本店屋上 三囲神社境内に祀られている「活動大黒天」は、名匠 高村光雲によって彫り上げられました。
慈悲深いお顔の表情のうちにも、俵の上に立ち上がり、右足を踏み出して打出の小槌を振り上げ、今まさに福徳を授けようとする活動的な御姿をあらわしています。
商売繁盛と幸運をもたらす神として、広く一般に親しまれ、敬愛されております。

三越から続いては松屋へ行きます。この屋上にも神社があります。

松屋銀座

明治2年(1869)横浜で創業された呉服屋「鶴屋」の流れをくむ百貨店。創業以降拡大路線を走るも、1970年代のオイルショックを境に経営難に陥り、銀座店と浅草店の2店舗体制になります。経営再建には伊勢丹と東武百貨店が関わりました。

龍光不動尊

美しい奉安殿は、平安神宮や神田明神などの設計を行った青池安太郎氏によるもので、1929年に高野山龍光院よりお迎えした龍光不動明王が奉られています。龍光不動明王は鎌倉時代の名匠の作です。

趣ある灯篭や敷石、狛犬が配された厳かなたたずまいで、「龍光」が流行に通じることから、ファッション関係の祈願にご利益があるとも言われています。

銀座のビル化に伴い、多くの神社がこのようにビルの屋上に作り直されたり、あるいは路地にひっそりとたたずんだりしています。このように、銀座は表だけを見てもわからず、裏から見るとさまざまな面が見えてきてとても楽しいです。

銀座発祥の歴史

松屋の隣に伊東屋があります。老舗の文房具屋として有名ですね。

 銀座伊東屋

明治37年(1904年)に創業した文房具店で、伊東勝太郎が「和漢洋文房具・STATIONERY」という店名で開店しました。白煉瓦造りの3階建てでしたが、大正12年(1923年)の関東大震災で本店を焼失し、丸ビル店で業務を再開するも、戦時中の物資不足で廃業を決断しました。しかし、昭和21年には戦火で全焼した伊東屋ビルを復旧し、販売を開始します。

2013年10月3日には、ステンレスビルの老朽化による建て替えのため、旧本店本館が閉店しました。同日に松屋銀座裏の仮店舗の本店本館が開店し、2015年6月16日には銀座新本店が改築・開店しました。

(リニューアル前はおよそ15万点もの豊富な品揃えがあり、大衆向けの安価な文具から裕福者層向けの高級文具まで様々でしたが、リニューアル後は大衆向け文具の取り扱いを大幅に廃止し、約3分の1の5万点ほどに縮小。裕福者層や専門品購買者層向けの高級ブランド品の取り扱いに路線変更しました。)

そして、こちらに銀座発祥の地の碑があります。

江戸時代、ここに銀貨幣を造る銀座役所(銀貨幣鋳造所)が置かれたことが、今日の銀座の始まりです。

慶長17年(1612年)、徳川幕府は現在の中央区銀座に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置しました。当時、町名は新両替町とされましたが、通称で銀座町と呼ばれ、明治2年には正式に銀座を町名とすることが公示されました。銀座での不正行為が発覚したことで、銀座役所は蛎殻町(現・日本橋人形町)へと移転します。その後、蛎殻町で再興した銀座役所は「蛎殻銀座」と呼ばれ、そこで約70年間続くことになります。また、蛎殻町へ移転しても、銀座は通称名の「銀座」のままでした。幕府の崩壊により明治政府に接収され、明治2年(1869年)に明治政府の造幣局の設立に伴い、廃止となりました。

銀座のはじめて物語ですね。

奥野ビルへ

そして、銀座の北側のやや静かな路地に、雰囲気がある建物が現れます。奥野ビルです。

奥野ビル

旧名「銀座アパートメント」であった奥野ビルは、2つの建物が連結しています。向かって左側の本館は1932年(昭和7年)に竣工し、新館と呼ばれる右側は1934年に完成しました。現オーナーの奥野亜男さんの祖父であり、鉄道部品の製造で成功した治助さんが、この地に部品工場を建設したのが始まりです。1923年の関東大震災で被災し、工場は大井町に移転しました。不動産として活用するために、震災にも耐えられるような鉄筋のビルを建てることにしました。

設計を依頼したのは、治助さんと交友があった川元良一氏です。同潤会アパートで知られる同潤会の建築部長を務め、独立してからは九段会館などを手掛けた建築家です。当時はまだ珍しかった鉄筋ビルで、住宅用エレベーターも備えていたため、銀座屈指の高級アパートとなりました。

変貌が激しい銀座にあって、昭和初期の面影を留める貴重な一画です。外観をはじめ、エレベーターや階段室など、アパート建築の特徴が良く残されています。また、建築当初から希少であった銀座の集合建築のほぼ唯一の現存建物として貴重です。多くのアーティストがこの建物を愛し、今もアトリエやギャラリーに活用されています。

せっかくなのでこの奥野ビルの中をしばし見学しましょう。色々なギャラリーやお店が軒を連ねており、雰囲気がありますよ♪

再び有楽町まで行って終了

奥野ビルから、並木通りなどを経て有楽町へ戻ってきます。ここでまた路地裏の神社を紹介します。

幸稲荷

江戸期から銀座一丁目の護り神とされ、もとは京都の伏見稲荷神社から勧請されたといわれています。その昔、太刀の市が立ったことから太刀売稲荷とも呼ばれており、縁結びの御利益があるとされています。

宝童稲荷神社

将軍の子息の早世を防ぐために祀られた神社で、かつては江戸城内にあったといわれています。健やかな子どもの成長に御利益があると伝わる子育て稲荷です。

この散歩の途上には、東映本社や銀座教会もあります。残念ながら銀座教会は工事中で見ることができません。銀座の北側半分だけでも見どころは多く、ここに紹介していない場所もたくさんあります。

銀座に数多くあるブランド店については、頁を改めて記載したいと思います。また、数年前まで存在した銀座屈指の名所も今回は載せませんが、後日掲載しますのでお楽しみにしてください。

銀座は何度コースを変えて歩いてみても楽しいです。また別のコースを考えて掲載したいと思います!

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