散歩コース紹介 銀座(南側半分)

散歩コース紹介

散歩コースの紹介、第2回目です。

今回は銀座をご紹介します。銀座は狭いエリアの中にたくさんの魅力的なスポットがあり、そのため2回に分けてご紹介します。まずは南側半分からお伝えします。

余談ですが、私が主催する散歩サークル「(仮称)歴史散歩サークル」では、今年の2月と3月に銀座の南側半分を歩きました。10月には北側半分の散歩を開催する予定です。

主なコース

 新橋駅(スイーツ買い食いタイム)~汐留~新橋ステーション~新橋の親柱・銀座の柳二世~銀座博品館~煉瓦街建設期の煉瓦遺構金春通り~金春湯~カフェ・パウリスタ~資生堂ビル~豊岩稲荷~銀座通り~イグジットメルサ(休憩)~銀座シックス~銀座アレイ~三原小路・あずま稲荷~晴海通り~銀座ソニービル~銀座メゾンエルメス~東急プラザ銀座~数寄屋橋公園~泰明小学校~みゆき通り~有楽町駅終点

新橋から銀座へ

新橋と銀座は目と鼻の先に位置しています。しかし、両者がすぐ隣で行き来しやすい印象はあまりないかもしれません。しかし、明治時代になると、銀座を日本の表玄関と位置付けるために、すぐ近くの汐留付近に「新橋駅」が設けられるなど、両者は密接な関係にありました。銀座へ足を向けるには、新橋を表玄関として利用する必要があったのです。この点については後述します。

そのため、散歩の開始地点も新橋駅からとなります。現在の新橋駅は、当時の新橋駅から少し離れた「烏森」にあり、当時は「烏森駅」と呼ばれていました。

こちらは、明治5年(1872年)に東京―横浜間に開業した鉄道の駅を再現したものです。現在の汐留付近に位置しています。

この新橋ステーションは、後に貨物の操車場となり、新橋の名は「汐留」となりました。もともとこの地は、江戸城建設時に日比谷入り江と内海(東京湾)の間を完全に埋め立てず、汐留川が内海に流れ込んでいました。汐留川は、石や木材の運搬に便利でしたが、江戸城建設が進み、城下の街並みがある程度整うと、人口の増加に伴い水の供給不足が懸念されました。貴重な飲料水を確保するため、赤坂の溜池の水を潮害から守る必要がありました。その結果、東京湾に通じる汐留川は海との関係を断たれ、新橋付近は「汐留」と呼ばれるようになりました。

新橋・汐留から銀座へは、直接行ける道がなく、やや迂回する必要があります。このため、銀座と新橋の間に断絶感があると感じられることもあります。

銀座の特徴の一つに、豊富な柳の木がありますが、昭和43年(1968年)の街路整備の際に、多くの並木の柳が切り倒されました。銀座に柳が多かった理由として、煉瓦街ができた当初に植えられた松や桜の根付きが悪く、早々にすべて柳に植え替えられたことが挙げられます。これが「銀座の柳」の始まりだそうです。銀座の土地に馴染んだ柳はすくすくと育ち、欧米とは異なる独特の並木を形成しました。

メイン通りである銀座通りには並木がないため、銀座には並木が少ないという印象がありますが、実際には銀座通り以外の歩道にはすべて並木があります。その中でも、柳の木が特に多いです。

そして、銀座の入口にあたる場所に「銀座博品館」があります。

銀座博品館

もとは、「帝国博品館勧工場」として創業されました。

こちらは、上野で開催された内国勧業博覧会の品々を売る勧工場として、多くの人たちが訪れる場でした。時計塔付きの派手な洋風の外観であり好評を博しますが、大正期に入るころから、粗悪品を売る店が増え、勧工場人気も下火になってしまいます。結局、昭和5年(1930)に廃業します。その後、カフェやキャバレーなどが入りますが、昭和53年(1978)に創業80年を機に現在の10階建てビルが新築。「博品館TOY PARK」として営業を再開、55年ぶりに「博品館」の名が復活しました。ここの8階にある「博品館劇場」では、小規模のミュージカル、落語、コンサートも行われ、桜田淳子氏が一瞬だけ復活コンサートをここでやったこともあります。

煉瓦の街・銀座

銀座は明治期に煉瓦街として整備された歴史があります。

その煉瓦街だったことを記しに「煉瓦街遺構の碑」があります。

鉄道が敷設され、新橋ステーションが完成間近の頃、日本の中心地は銀座よりも横浜でした。明治政府の高官たちは、東京遷都に対してもどかしさを感じていたかもしれません。明治5年の銀座の大火は、逆に近代化の兆しと捉えられた可能性があります。

大火の後、すぐに煉瓦街の建設が始まり、銀座は煉瓦建築の街並みへと変貌しました。明治期の銀座には多数の新聞社が立地し、記者たちは身近な西洋の題材を求めました。銀座を美化する新聞記事が全国に報じられ、錦絵は全面に列柱を配した西洋風の街並みを魅力的に描き出しました。結果、銀座は全国に広く知られるようになりました。

下記に、かつての煉瓦街の写真を掲載します。というか、レプリカですが(;”∀”)

なお、この煉瓦街の通りは「金春通り」という花街でした。

金春通り

能役者の一座、金春の拝領地があり、その金春の屋敷が建てられていたことから、その名が付きました。金春通りをパフォーマンスの舞台にして、金春流の薪能が毎年8月下旬に催されるそうです。(能楽金春祭り)

金春通りは花街として栄え、多くの芸者がいたといいます。煉瓦街になった明治期以降も、花街はさらに拡大。伝統ある「金春湯」も健在です。

銀座通りへ

そして銀座の中心でありメインである銀座通りへ出ます。

銀座通り

銀座通りは、両側の建物の間隔が約27メートルで、これは煉瓦街の建設時に広げられた幅であり、現在もその幅が街並みを形作っています。銀座通りでは、オリンピックメダリストの凱旋パレードやプロ野球巨人軍の優勝パレードなどがよく行われます。また、休日の午後(正午から)には歩行者天国が実施され、車両の通行が禁止されます。歩行者天国は1970年(昭和45年)に始まり、当初は銀座、新宿、池袋、浅草の4地区でスタートしました。銀座では、コロナ禍の影響で一時的に歩行者天国が中止されていたこともありました。

あと、この銀座通りに超有名な喫茶店があります。

カフェパウリスタ

ブラジル移民の父、水野龍氏が明治44年(1911)に創業しました。パウリスタという名前は「サンパウロの人」という意味らしいです。水野氏は、日本のコーヒー文化のパイオニアでもあり、このカフェも文豪や文化人に愛された店であったようです。

 ちなみに、ジョンレノンとオノヨーコ夫妻が、1978年にこのカフェを訪れています。3日連続で通ったというほどなので、ビートルズ&ジョンのファンにとっては聖地です。

※カフェパウリスタの記事を掲載しています→カフェパウリスタ

下👇の写真は入店した際に召し上がったものです。

東京銀座資生堂ビル

明治5年(1872)に福原有信がこの地で調剤薬局を開業。明治35年(1902)には、資生堂パーラーの前身となる「ソーダファウンテン」を開設。震災後、建築家の前田健二郎の設計により資生堂パーラーを再開させます。現在のビルは2000年12月に竣工、2001年3月にオープンしました。

路地が多い銀座

銀座という町は、実に多くの路地が特徴です。近代的な建設が進む一方で、古くから残る神社や路地をどのように保存するかという工夫が見られるのが銀座の魅力です。銀座では、伝統と現代が調和する様子を垣間見ることができます。

まずはこの豊岩稲荷神社です。江戸時代の創建といわれています。

明智光秀の家臣であった安田作兵衛によって創建され、江戸時代からは火防神や縁結びの神として知られています。特に女性の参拝者が多いことで有名です。昭和時代には、歌舞伎の名優市村羽左衛門などの芸能関係者からも崇敬を集めました。また、この稲荷は水商売の人々にも強い信仰を集めているそうです。なお、この路地の向こう側は以前は通り抜けできましたが、最近は閉鎖されたため、行けなくなっています。

銀座には、ビルの数十ⅿ裏には、ほとんど一般の人が通らない路地が潜んでいます。

それは銀座通りと裏通りに挟まれた場所にあります。

140年以上も前の煉瓦街建設でできた、ある意味もっとも銀座らしい空間路地で、いまだ健在なのです。

銀座シックスなどの裏手にあたります、三原小路です。

明治の終わりころ、現在のあづま通りと三原通りの間のブロックの大半は、質商である「江島屋」の田村藤兵衛が所有する大規模な二つの敷地で占められていました。

田村藤兵衛の土地は、華やかな銀座通りと交わる横丁、あるいは1本入った裏通りに面していることもあってか、銀座通りのように輸入品を扱う専門店が店子ではありません。裏通りには印刷工場が場所を占め、横丁には菓子商や煙草商、床屋など、あるいは診療所が並んでいました。

質商は、農地解放と平行されて行われた戦後の財産税でことごとく土地を失います。その土地が細分化されたときに、2つの路地が誕生したそうです。一つは、三原通り以外からはアプローチできない、袋小路の路地でっす。路地の前に立つと、半世紀以上前の雰囲気を感じるゲート状の看板が出迎えます。

そして、もう一つの路地が三原小路です。この路地も実は戦前まではなく、小規模な土地を得た人たちが各々出し合って路地を作り出したそうです。路地に置かれたあづま稲荷もきれいに掃除されています。

銀座シックス屋上

イグジットメルサでしばし休憩します。1階はスイーツの店がたくさんあり、6階にウィスキー博物館があります。

銀座シックスの前には、かつて松坂屋銀座店がありました。

銀座シックス

銀座エリア最大の商業施設。閉店した松坂屋銀座店(銀座最古の百貨店)の跡地を含む銀座6丁目10番街区と隣接する銀座6丁目11番街区約1.4haにわたる2つの街区を一体的に整備する再開発事業が決まり、2011年12月に都市計画が決定し、2017年1月に竣工しました。銀座最大の建築面積という特徴を表現するために、建物全周には、階ごとに「ひさし」が設置されました。地下3階には観世能楽堂があります。屋上庭園は、森林ゾーン、芝生などからなります。その屋上庭園の写真を👇

歩行者天国のある銀座通りとは違い、晴海通りは常に車がビュンビュンと通ります💦

晴海通り

日比谷映画街と歌舞伎座、さらには築地を結び、そのさらに先に晴海ふ頭に至る道です。戦時色が強くなる昭和15年(1940)、万国博覧会が東京の晴海で解される予定でしたが中止。ちなみに、勝鬨橋は晴海通りの忘れ形見として残されました。通りの名前も、博覧会場の場所にちなんで「晴海」」とされました。

晴海通りはとにかく交通量が多いです。銀座通りの倍以上、1日に約4万台の自動車が行き来するそうです。

銀座ソニーパーク

1966年から続いたソニービルの地上8階建てのビル部分を取り壊し、古い建築を活かしながらリニューアルされ、2018年8月9日(パークの日)にオープンしました。

銀座メゾンエルメス

エルメスが日本で皆様をお迎えするべく設けた「メゾン(家)」です。竣工は2001年、ランタンの灯りのようなガラスブロックを使った設計は建築家レンゾ・ピアノが手がけました。
地下1階から4階はエルメス銀座店のフロア、8階はアート・ギャラリー「フォーラム」*、10階は予約制のミニシアター「ル・ステュディオ」となっております。

みゆき通りへ

続いて、数寄屋橋公園へ向かいます。

数寄屋橋公園

数寄屋橋公園は、2016年にオープンした東急プラザ銀座とともにリニューアルされました。この公園は、江戸時代に江戸城に初めて架けられたとされる数寄屋橋があった場所で、歴史を証明する石碑も立っています。また、岡本太郎作の「若い時計台」があることでも有名です。数寄屋橋は、有楽町と銀座との境に位置する外堀に架かっていた橋で、江戸時代には数寄屋橋門も存在しましたが、昭和33年(1958年)の外堀の埋め立てにより消滅しました。

この数寄屋橋公園のすぐ裏手に、泰明小学校があります。

泰明小学校

明治11年に創立された東京府公立泰明小学校は、当初赤レンガの校舎が建てられました。しかし、関東大震災によりその校舎は全焼し、現在の校舎は震災復興事業の一環として竣工された鉄筋コンクリート造です。この校舎の造りには、特徴的なデザインが随所に見られます。例えば、正面玄関の門柱やアーチ型の窓、講堂部分の曲線を描いた壁面、ツタが絡んだ校舎の外観などが代表的です。また、これらのデザインに合わせて、門扉(フランス門、銀座みゆき通り美化会寄贈)や校舎周辺の整備(区整備)なども後に行われました。全体として瀟洒な雰囲気を醸し出しており、非常に魅力的な校舎です。平成11年には東京都歴史的建造物に選定されています。さらに、泰明小学校は島崎藤村や北村透谷などの著名な文学者の出身校としても知られ、地域の歴史とも深く関わっています。こうした点からも、銀座の文化を象徴する校舎として、銀座の街並みに溶け込んでいます。

 

そして、みゆき通りに出ます。

みゆき通り

かつて、将軍や天皇が浜御殿(浜離宮)に行くために、この通りから銀座を抜けており、天皇が通る道という意味で「御幸」という名が付きました。戦後復興期には、帝国ホテルに泊まる外国人たちを目当てに、横文字の看板を掲げる貴金属の店がこの通りぞいに並び、国際色豊かな街並みを作り出します。昭和30年代には「みゆき族」といわれた若者たちが出没しました。みゆき通りは直線を基本とする銀座の通りの中でも数少ない数寄屋通りから左に折れ曲がる道でもあります。明暦の大火後に曲げられ、明治初期の煉瓦街建設時には真っすぐとなるが、震災後、帝都復興事業で再び曲げられたそうです。

あり、直接江戸城下近くまで船で入り込めました。日比谷公園と丸の内一帯は海だったのです。関東一帯・江戸が徳川家康の支配下となった後、その海を埋め立て、大名屋敷などの武家地を造成しました。この埋め立てに際し、日比谷入り江に流れ込んでいた神田川(平川)を隅田川に流す付け替え工事が行われました。銀座の町人地は、丸の内や日比谷が埋め立てられ、整備された後に誕生します。つまり、街の成立は武家地成立の後10年後ほどでした。

江戸時代初期はみゆき通り付近より、今の晴海通り付近と数寄屋橋付近が武家地と町人地を結ぶ中心的な役割を担っていましたが、明暦の大火でその役割が逆転します。元禄の頃、晴海通り南側に80mほどの幅の火除け地ができ、晴海通り界隈が賑わいを見せる場所ではなくなったことで、みゆき通りは都市軸としての期待が膨らみ、クローズアップされます。江戸時代も中頃となり、防衛上の問題は二の次となり、幕府はみゆき通りをよりシンボリックな場にするため、山下橋に向かう曲げられた道が新しく通されました。それまでの町割りをかなぐり捨ててでも、みゆき通りをシンボリックな場所にしようとしたのです。

ところが、煉瓦街建設でみゆき通りはまた変化します。曲がっていた道が再び真っすぐに変化され、その道路に沿った敷地に泰明小学校校舎が明治11年に造られます。それが再び変えられるのは、大正12年の関東大震災でした。帝都復興事業では山下橋に直結するように再びみゆき通りが曲げられ、現在に至ります。

みゆき通りは、銀座通りと対抗するかのように、表通りの看板を背負ってきた時代がありました。江戸時代中頃に整備されたころからです。その自負が通りで商いをする人々のどこかにあるようです。みゆき通りでは20年以上「銀座みゆき通りフラワーカーペット」という催しが毎年4月29日の「昭和の日」に行われていました。20万本のチューリップの花びらが銀座通りから西銀座通りにかけて、路面いっぱいに花のじゅうたんとして敷かれます。

このみゆき通りに出現したのが、みゆき族です。銀座南側散歩の最後はこの「みゆき族」の話をします。

みゆき族

みゆき族(みゆきぞく)は、既成の秩序にとらわれず、自由な考え方や行動を示す青年たちの類型のひとつです。1964年頃、東京都中央区銀座のみゆき通り近辺に集まっていたことからその名前が付けられました。彼らは独自のファッション文化やストリートカルチャーを日本に流行させました。

男性はアイビールックを崩し、バミューダショーツやつんつるてんのコットンパンツなどを着用し、VANやJUNの紙袋や頭陀袋を小脇に抱えていました。女性は白いブラウスに低いヒールのぺったんこ靴、ロングスカート、リボンベルトを後ろ手に締め、頭に三角折りしたスカーフや首にネッカチーフを巻いていました。男性同様に紙袋やズダ袋を抱え、特に目的もなくただみゆき通りをぶらぶらと歩くことが流行しました。このようにして、みゆき通りとその周辺に集まる若者たちが「みゆき族」と呼ばれるようになったのです。

このブームは、1964年4月28日に創刊された週刊誌「平凡パンチ」がアイビールックの知名度を上げるのに貢献しました。若者たちが地方から集まった目的は、買い物だけでなく、同じ服の趣味を持つ仲間を見つけたり、互いの趣味を競い合ったり、通りで異性と出会ったりすることでした。1960年代末に若者文化の中心が新宿に移るまでは、上京した若者が目指す場所は銀座であり、みゆき通りにはVANの大きな店舗があったため、若者たちはその周辺に集まり、ぶらぶら歩いたり、グループを組んでショーウィンドーの前に立ったりするようになりました。

しかし、みゆき族といえどもカミナリ族のように周囲を困惑させるような反社会的な行動はありませんでしたが、週刊誌には彼らの「不純異性交遊」が取り上げられることが増えました。また、地元の商店主からは「うろうろするだけで商売の邪魔だ」といった声もあり、都民からは警察への苦情が殺到しました。1964年東京オリンピックに向けた風紀向上策として、警察は取り締まりを検討し、9月12日には築地警察署によって一斉取り締まりが行われました。その結果、秋口にはみゆき族の姿が消えました。

銀座の南側の散歩コースを掲載しました。次は北側のコースを掲載します。

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