河井継之助 その人物 1⃣ 徳富蘇峰の回顧から

幕末史

歴史の話として、幕末に活躍した河合継之助についてお話しします。

河井は、いわゆる佐幕側に属した人物で、徳川譜代の長岡藩牧野家の家老でした。彼は開明的で、攘夷を愚物と馬鹿にし、早くから開国と富国強兵の重要性を理解していました。おそらく、薩長側のどの人物よりもそのことを理解していたのではないかと思います。

しかし、戊辰戦争の際、当初は武装中立を掲げましたが、薩長側に相手にされず、やむなく佐幕側の「奥羽越列藩同盟」に属して戦いました。結果として薩長軍に大打撃を与えましたが、最終的には敗れ、命を落としました。

司馬遼太郎氏の小説『峠』で一躍有名になった河井継之助。その魅力について語っていきたいと思います。まずは徳富蘇峰の回顧から見ていきます。

薩長側の誰よりも優れていた

徳富蘇峰という偉大な歴史家がいました。彼は河井継之助を非常に高く評価しており、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の三人を「維新の三傑」と呼ぶ際、継之助はこの三傑を足したよりも大きいとは言わないまでも、三等分したよりもその人物が大きかったのではないかと考えていました。

徳富蘇峰は56歳の時に『近世日本国民史』を書き始め、90歳の時に全百巻を完成させた人物です。長州出身の首相経験者桂太郎や、薩摩出身の松方正義の懐刀としても著名でした。このように薩長の人士と非常に親しい人物が、晩年に継之助を高く評価していることは注目すべきことです。

牧野家の家老として最後まで振舞う

河井継之助の生き方を考えると、当時の幕末における人々の考え方は主に二通りあったと思われます。

一つは、一個の独立した人間として広く天下を相手に生きるという方向です。多くの脱藩浪人がこのような考え方を持っていました。坂本龍馬や清河八郎などがその代表例です。彼らは時代を見通し、藩の枠に束縛されずに自由に生きたいと願う人々でした。

もう一つの生き方は、従来の関係を大切にし、藩士として藩ぐるみの新しい時代に適応していく方法を考えることです。河井継之助の生き方は後者に該当します。彼の頭の中には、常に徳川譜代の牧野家の家臣であるという意識が最後まで残っていました。

先進的な思考と義理を重んじるバランスの果に

牧野家は、いわゆる三河国松平村から出てきたものであり、立派な徳川譜代の家臣です。この三河武士は剛毅朴訥であり、非常に一本気で質実剛健な性質を持っています。そのため、時代に対する目先や小手先の対応は不得意かもしれませんが、大事に対しては肝が据わっていると言えるでしょう。

長岡藩は表高7万4千石の中藩ですが、家格は比較的高いです。徳川幕府の中における地位も非常に高く、特に幕末には歴代の藩侯が三代続けて京都所司代を務め、老中も勤めていました。所司代を卒業すれば老中になれる家柄であり、徳川氏の藩屏として非常に幕府に重きを置かれた藩です。さらに、牧野候の初代は徳川十七将の一員として名を馳せた徳川武士でもあります。

このような背景から、継之助は後年の戊辰戦争という国家の大事に際して、まず徳川氏に対する「義理」を考えました。継之助には天下の大勢を見通す力があったため、王政維新に協力して近代国家の建設に寄与する生き方もあったでしょう。しかし、徳川氏が不当に圧迫された場合には、一藩をあげて徳川氏のために弁護しなければならないと考えることを優先しました。

これをもって継之助が保守反動であったとは決して言えません。河井継之助が藩政に当たって行った数々の改革を見れば、彼が非常に進歩的で革新的な人物であったことがわかります。やはり、継之助が従来の二百数十年間の牧野家と徳川家の関係を断ち切ってしまうわけにはいかないと、浮世の「義理」を重んじて行動したことが、戊辰の時の河井の行動につながったのだと思います。

(続きます)

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