浦賀奉行所と中島三郎助の話。浦賀奉行所の創設期の地元三浦半島の住民とのかかわりについて書いていきます。
異国船が近海に現れる
19世紀に入りますと、日本には異国船が頻繁に来航するようになり、幕府はその対応に苦慮するようになりました。ロシアのレザノフが長崎に来航し、日本人の漂流民を送還し、交易を求めたのは文化元年(1804年)であり、その後、文化5年にはイギリス軍艦のフェートン号が不当に長崎港に入港し、オランダ商館長を捕える事件が発生いたしました。この時、長崎奉行が責任を取って自害し、幕府は事件の続発に対して海防の強化を模索するようになりました。
さらに、文化10年にはロシアのリコルドが箱館に来航し、ロシアに幽閉されていた日本人商人の高田屋嘉兵衛を送還する事件が発生いたしました。これらの事件はいずれも江戸から遠く離れた地域で起こりましたが、東京湾への異国船の来航も時間の問題であったと考えられます。
イギリス船が浦賀沖に
浦賀に初めて異国船が来航したのは文政元年(1818年)5月14日のことで、来航した異国船はイギリス商船のブラザーズ号でした。この船の船長はピーター・ゴルドンで、彼はインドから国後方面にかけての地域で商品を販売する仕事をしていました。残された記録には、彼が日本の商人との交易を求めて浦賀に来航したとあります。
当時、三浦半島の防衛を担っていたのは会津藩で、浦賀奉行所はブラザーズ号の来航に際して、会津藩と共同で警備を行いました。会津藩が三浦半島の防衛を命じられたのは8年前の文化7年(1810年)で、同藩は三浦半島を中心に約3万石の領地を新たに与えられました。また、同藩は鴨居(横須賀市鴨居)や三崎(三浦市)に陣屋(武士が常駐する軍事施設)を置き、これらの陣屋に藩士や足軽約500人を常駐させました。そして、観音崎や城ケ島、さらに浦賀に隣接した平根山に台場(砲台)を設置し、これらの運営を行いました。
三浦半島の住民に動員令が
一方、会津藩の領地になった村々には、異国船が来航した際に動員令が発せられることが定められ、有事の際には現在の横須賀市・三浦市・鎌倉市などの地域から1000人もの農民や漁民が警備に動員されることになりました。動員令の内容を記した文書には、彼らが警備にあたる船の操縦や兵糧、武器の運搬に従事することが記されており、ブラザーズ号の来航時にもこのような動員が行われたと考えられます。また、動員令は異国船が来航したことを村々に通報する方法についても記しており、会津藩の陣屋から「触継」と呼ばれる通報者が村々に派遣されることが決められています。動員令では通報者が名主に異国船の来航を伝えることになっており、通報を受け取った名主は鐘や拍子木を鳴らして村民に情報を伝達しました。
通報を受け取った村では、動員される者が名主の家に参集し、出動に備えて船を用意しました。また、動員される農民や漁民については、壮健な者を村で選出することが決められ、彼らに対して会津藩の武士と「主従の誓い」をすることが求められました。ブラザーズ号の来航以降、ペリー艦隊の来航まで三浦半島には相次いで異国船が来航しましたが、その都度、この地域の人々は軽微に動員されることとなりました。軍事的な緊張の高まりは、浦賀奉行所の与力や同心、警備にあたる諸藩の藩士だけでなく、地域の農民や漁民の暮らしにも大きな影響を与えることになりました。
(続きます)
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