浦賀奉行所 ①浦賀奉行所の創設期 異国船への備え

幕末史

浦賀奉行所と中島三郎助の話。まずは浦賀奉行所の歴史について触れていきます。浦賀奉行所が出来たのは、江戸時代の後期に入る享保5年(1720)でした。

海の関所として

浦賀奉行所は、江戸時代中期の享保5年(1720年)2月21日(旧暦)に新設された奉行所です。幕府が浦賀奉行所を設置した背景には、江戸を中心とした地域の経済活性化があり、各地から江戸に入る物資が急増したことがあります。

江戸に入る物資の中には「千石船」と呼ばれる大型の廻船で運ばれるものも多く、幕府は江戸での物価統制のために廻船荷物の種類や量を調査する必要がありました。その結果、東京湾の入口に奉行所を新設し、廻船荷物の検査を行うことになりました。また、同時に廻船荷物の中に武器が含まれていないか、東京湾外に出る廻船に女性が乗っていないかも検査されました。これは、謀叛を防ぐために鉄砲などを江戸へ運ぶことや、人質として江戸の屋敷に住む大名の妻女が本国に脱出すること(入り鉄砲に出女)を阻止する目的でした。浦賀奉行所は「海の関所」として重要な役割を果たしました。

浦賀奉行所の概要

歴代の浦賀奉行の人数は、奉行所の設置から慶応4年(1868年)の廃止までに52人に達しました。浦賀奉行のもと、時代によって変動はあるものの、多いときには約20人の与力と約100人の同心が奉行所の業務に従事しました。与力と同心は形式上「一代抱え」とされましたが、中島三郎助の家など世襲家も存在し、何代にもわたって奉行所の近くに住み続ける者もいました。世襲の場合、父親が現職である間に息子が見習いとして出仕することが一般的でした。

一方、浦賀奉行はおおよそ1000石から5000石程度の上級旗本から任命されることが多く、長い期間にわたり一人の奉行が続くことが一般的でしたが、19世紀には2人の奉行が任命されたこともありました。奉行所は西浦賀に置かれ、役所の建坪は約600坪、敷地は総面積1400坪を超えました。江戸には、浦賀奉行を務める旗本の私邸に江戸役所が設置され、幕府との連絡場所として利用されました。また、三崎や伊豆の下田にも出先機関が設置されました。

異国船の来航に備える

浦賀奉行所の役割が拡大したのは19世紀に入ってからです。日本近海への異国船来航の急増に伴い、浦賀奉行所は東京湾防衛の要としての役割を負うことになりました。

東京湾の防衛体制が大きく変わったのは文政3年(1820年)で、この時、三浦半島の防衛を一手に担っていた会津藩がその任務を解かれ、川越藩と小田原藩に防衛を命じられました。また、対岸の房総半島では文政6年に、白河藩に代わって久留里藩と佐倉藩が、幕府代官の森貫之の指示に従って防衛にあたることが命じられました。これにより、異国船来航に際して関東に領地を持つ諸藩が防衛にあたることになり、海防の強化が図られることとなりました。

この時、浦賀奉行が三浦半島防衛の第一責任者であることが示され、異国船が来航した際には浦賀奉行の判断によって川越藩と小田原藩が出兵することになりました。

また、奉行の人数も1名から2名に増員され、月ごとに江戸と浦賀での勤めを交代する体制が整えられました。こうして浦賀奉行所は「海の関所」としてだけでなく、相次ぐ異国船の来航から東京湾を防衛する最前線の役所としての役割を一層強化していくことになりました。

(続きます)

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