ここでは渋沢栄一の少年時代を追っていきます。まずは、生誕時と渋沢家についてです。
「中ノ家」の嫡男として誕生
渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日に、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)で生まれました。幼名は市三郎でした。「市」はその家の通り名であり、第三子として生まれたことから「市三郎」という名前が付けられました。兄が二人いましたが、いずれも若くして亡くなり、実質的に長男として育てられました。
渋沢家で幼少期に亡くなった兄弟姉妹は8人に及び、成人まで生き延びたのは姉と妹それぞれ1人だけでした。江戸末期には、たとえ裕福な家庭でも成人するのが難しかった背景があったことがうかがえます。しかし、渋沢は後に「早く逝った兄弟の分まで長生きするつもりだ」と語り、実際に91歳まで長命を全うしました。
当時の血洗島には、渋沢一族が多く住んでおり、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」などと区別されていました。渋沢が生まれた「中ノ家」は、岡部藩主の御用達とされ、苗字帯刀を許される地域の中心的な家でした。
父は市郎右衛門といい、母は栄でした。市郎右衛門は「東ノ家」からの婿養子であり、家業に従事しながらも、儒学を積極的に学び、詩歌や俳諧にも親しんでいた村の知識人でした。母の栄は、慈しみ深い人物であったと伝えられています。
渋沢家の興り
渋沢家の伝承によれば、天正年間に渋沢隼人という者が血洗島の草地を開拓し、農業に従事したとされています。これが渋沢家の祖であると言われていますが、隼人の出自についてははっきりしていません。足利氏の支流であるという説もありますが、確証はありません。また、甲斐源氏の逸見氏に「渋沢」を名乗る者がいたという話もありますが、それも根拠が薄いです。しかし、天正年間の上野・武蔵の北部地域は、武田氏と北条氏が争った地域であり、天正10年に武田氏が滅びたため、武田氏の家臣の一部が武士を辞めて農民として生活を始めた可能性はあるかもしれません。
血洗島に到着した当初、家は五戸のみだったようですが、やがて繁盛し、渋沢氏を名乗る家は十余戸に増えました。その中で、市郎右衛門の家は「中ノ家」として発展し、栄一はその中ノ家の子として生まれたのです。
中ノ家の発展
中ノ家が所有していた土地は、17世紀半ばには田畑や屋敷を合わせて八反二畝十八歩(約8,000平方メートル)で、村内30戸の中で21番目の小農に過ぎませんでした。しかし、渋沢が生まれた頃には、一町九反五畝十八歩(約20,000平方メートル)以上を所有するまでに成長し、「東ノ家」に次ぐ2番目の土地持ちとなっていました。
渋沢は『雨夜譚』で、自分の家で作った藍に加え、他人が作った藍も買い入れて、それを藍玉に製造し、信州や上州、秩父周辺の紺屋に送り、後で勘定を取るといういわゆる掛け売り商売を行っていたと回顧しています。商品作物であった藍玉の生産と販売による収益の増加が、土地の集積につながったのです。
血洗島が中仙道の陸運と利根川水運に隣接した地域であったことも、渋沢の経済感覚を育む背景となったと考えられます。具体的には、血洗島村の南には中仙道の深谷宿(江戸から20里余)がありました。深谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒のほか、80軒余りの旅籠があり、人口も約2,000人で、商業地として非常に賑わっていました。また、利根川の中瀬河岸を利用できたことも、藍の肥料の購入や藍玉などの商品作物の取り扱いにおいて極めて有利でした。藍栽培には人糞や干鰯の肥料が必要であったため、血洗島は利根川水運を通じて九十九里からこれらの肥料を容易に入手できる地理的な利点を持っていたのです。
藍の生産と販売に成功する
藍の原料の仕入れは現金決済が求められ、仕入れの時期も限られるため、資金運用が難しい商品でした。父の市郎右衛門は、各地に出向いて藍葉の買い付けを行い、その出来不出来について論評しながら仕入れていました。渋沢は、父の手法を見よう見まねで学んでいきました。14歳で初めて一人で買い付けに出かけた際には、生産農家が驚くほどの交渉力を示したと言われています。
また、仕入れに慣れるにつれて、例えば藍を買い入れた後にその良否によって番付を作成し、優れた藍を作った生産者を宴席に招待して、そのやる気を引き出す工夫をするなど、改良を重ねていきました。こうして、買い付けた藍玉を信州の6、70軒、秩父の20軒あまりの紺屋に販売する作業を繰り返す中で、渋沢は後に開花する商才を培っていったのです。
(続きます)
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