田中正造の生涯 ~百姓正造~ 1⃣生誕

田中正造

田中正造の生涯を追っていきます。まずは幼少期からです。

幕末維新の世に生を受ける

田中正造は天保12年(1841年)、天保の改革が始まった年に生まれました。後に彼と運命的に関わることとなった三島通庸や古川市兵衛、陸奥宗光は、ほぼ同世代の方々です。彼らを含めて正造は「幕末維新の激動期に青年として活躍できた世代」と言えるでしょう。志士たちは新政権を打ち立て、西欧文明の近代国家建設という困難な事業を進めていきましたが、それを可能にしたのは彼らが青年であったからではないかと考えます。その熱意と力が急激な転換を実現させたのです。彼らはその意味では運命に選ばれたメンバーであり、時代の旋風を受けて、昇竜のように天に駆け上っていったのです。

母親に厳しく諭されて改心

正造は、下野国小中村(現栃木県佐野市)に生まれました。彼の家は代々名主であり、父の富蔵は人望が厚く、一徹ではありましたが温厚で、人を怒ることはなかったとされています。

「自分は幼時より強情であった」と正造は回想しています。5歳の時に人形を描いたことがあり、使用人に見せたところ、「あまりうまくありませんね」と笑われました。正造はそれが悔しかったようで、「では、お前はうまく描けるのか」と怒り、「すぐにやれ」と命じました。使用人はしきりに謝りましたが、正造は許しませんでした。母親のさきが「許してあげなさい」と宥めても、彼は聞かなかったのです。このエピソードから、正造が5歳にして非常に強い選民意識を持っていたことがわかります。まさに「名主のおぼっちゃま」であったと言えるでしょう。逆に言えば、この時代の使用人や下男の身分があまりにも低かったとも考えられます。

この時、あまりの強情に母が怒り、雨の夜に戸外に放り出されたそうです。恐ろしさに泣き叫びましたが、2時間も許されなかったといいます。普通、5歳頃の記憶はあまり残らないものですが、彼がこの出来事をはっきりと記憶しているのは、よほどの恐怖として心に刻まれたのでしょう。この経験は彼に心底悔悟の念を起こさせたようです。

「下の者を虐めることを絶対にしなくなったのは、この慈母の教育の賜物である」と回想しています。正造の弱者に対するまなざしが優しいのも、母親の教育の賜物であったことが理解できます。

部落差別に異を唱え続ける

明治になった頃のエピソードがあります。正造は、被差別民である穢多に夏の麦打ちを手伝わせました。炎熱の中での作業のため、清水を桶に常備し、乾くとお椀で飲むようにしました。穢多も正造も同じお椀で飲んでいましたが、周囲の人々はこれを嫌がりました。当時、穢多は決して座敷に上げたり、風呂に入れたりしなかったと言われています。正造はそれを構わず、穢多を家に上げ、風呂にも入れ、酒を振る舞いました。杯を交わし、同じ杯で酒を飲んだのです。そのため、村人は正造の行為を嫌がり、近隣や親戚も訪れなくなりました。

正造は「穢多を差別すべきではない」と必死に諭しましたが、言えば言うほど人々は眉をひそめて陰で唾を吐き、ついには正造が訪問しても茶を出す家がなくなったといいます。部落差別が当然とされていた風潮の中で、この時代も差別は主流であり(むしろ明治期以降の方がひどくなったとも言われています)、反対意見はあまり見られなかったため、正造の振る舞いは顕彰に値する立派な行為であると思います。

強情だった正造

幼児は口下手で、記憶力も悪かったと言われています。この点が、多くの歴史上の人物とは異なり、幼少時の英邁さが全く垣間見えないところです。7歳の時、漢文7文字を臨書して、親族に贈ったことがありました。お礼に小遣いを渡された際、その読みを尋ねられるのを恐れ、銭を投げ捨てて帰ってしまったというエピソードからは、よほどのコンプレックスを抱いていたことがうかがえます。

富士や浅間の信仰に基づき、氷を割って水中に入るような荒行も行ったということから、かなりの鬱屈があったのかもしれません。絵や所作は得意ではありませんでしたが、喧嘩や相撲には無敵で、年長者にも勝ったそうです。「しかし、強いだけでは餓鬼大将の地位は保てない」と注釈しているのが面白いところです。

後に正造は国会議員となり、海千山千の政治家と丁々発止のやり取りを繰り返しますが、その闘いの呼吸もこうした経験から学んでいたはずです。攻撃の仕掛け方、抑え方、引き際なども実に巧妙でした。それらは、こうしたガキ大将の闘いで身につけたのではないでしょうか。

「信を守る、それを固く守ってきたのだ」と正造は胸を張ります。大将たる者は周囲への目配りが必要であり、人格的にも尊敬されねばならないと考えたのです。自分に悪評が立つ場合には、煩悶して止まなかったといいます。彼の中には「どうしても名誉を回復しなければ」という気持ちが幼少期からあったようです。周囲の目に一喜一憂したわけではなく、行動が正義かどうか、他人から指弾されないか心配していたのです。まさに病的なまでの正義意識が見受けられます。

7、8歳の頃、母から「お前のように強情では、近所の人が悪く言います」と叱られたことがありました。それが応えて、飯も食わずに悔し泣きしたということからも、かなりの衝撃を受けたのだろうと思われます。母は叱るツボをつかみ、以後は「村の者が悪く言うよ」と叱ったそうです。このようなしつけによって、強情はいくらか改善されたと回想しています。(続きます)

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