歴史の話がなかなかできていませんね💦今日は久しぶりに戦国時代のお話し、真田家について話したいと思います。
真田家と言えば、真田幸村の大坂の陣の大奮戦、その父の真田昌幸の家康を翻弄しまくった智略、そして昌幸の嫡男で幸村(信繁が本名)の兄である真田信之が家を守るために懸命にふるまった姿、いずれも有能な面々が軒を連ねる一族です。
信濃の東部にある小県郡と上野(群馬県)の北部である沼田界隈という小規模な所領を懸命に守り、家名を江戸時代幕末まで存続させたこの家の歴史には大変興味がありました。その歴史について触れていく項目を作りたいと思います。
武田家の家臣だった真田家
もとより真田家は、信濃の東部の小豪族でした。武田信虎の代に一旦は所領を奪われた真田家ですが、真田幸綱(幸隆)の代に武田家の後を継いだ信玄に仕え、村上義清の砥石城を謀略で堕としたりと、外様ながら武田家において重要な役割を果たします。
その幸綱は、信綱、昌輝、そして昌幸らの兄弟を育てます。信綱も昌輝も勇敢な武将でしたが、三男の昌幸は幼い頃から信玄のもとに人質に出され、信玄の下で軍略を学びます。若い頃から昌幸は信玄の信頼厚く、「我が片目の如きもの」と言われるほどの、昌幸の働きぶりをたたえていたようです。
信玄没後、本来であれば三男である昌幸が真田家の後継者には選ばれないはずですが、長篠の戦いで兄の信綱と昌輝が戦死し、昌幸が真田家の家督を継ぎます。武田勝頼の下で信頼厚かった昌幸ですが、天正10年(1582)に武田家が滅亡すると、ここで昌幸の本領が発揮されます。昌幸は、織田家→北条家→上杉家と次々と所属を変えつつ、最終的には徳川家康に属します。その家康に対して昌幸は上田城を作らせるなど、配下の状態でありながら結構図々しいです。(笑)
そして、徳川家の真田が領していた上州沼田領を北条に割譲するように命じられた際、昌幸はこれに反発し、徳川家の侵略を受けます。徳川勢はおよそ1万の兵で攻め立てますが、昌幸は謀略を駆使してこれを撃退。数千という少数精鋭で徳川勢を打ち破った智略がさえわたった瞬間でした。
関ヶ原で東西に分かれた真田家
その真田家は、豊臣秀吉の命で再び徳川家の属下大名(与力的存在)になります。関ケ原の戦いの際(1600年・慶長5)、当然のことながら真田家は徳川家の側に着くものだと普通ならば思うはずです。
ところが昌幸は、ここで凄まじい決断を行います。自らと二男の信繁(幸村)は西軍(石田三成らの側)に属することにして、嫡男の信之を東軍(家康側)に属させます。これに対しては三者で激しい議論があったようですが、家を守るというか残すための懸命に考えた末の事でしょう。
だが実際には、昌幸には「家康なぞ徹底的に翻弄してやるわい」という気持ちがあり、「あわよくば信濃1国を奪ってやるわい」と思っていたのでしょう。戦国武将が持つ強かさと凄まじさをここに見せられた感があります。
やがて、中山道を徳川秀忠の大軍(3万8千ほど)が上田城を攻め立てました。上田城の将兵は数千程度で、普通ならば勝てる戦ではないはずです。当然ながら無駄な戦をしたくない、早く上方へ上りたいと思う秀忠は昌幸に降伏勧告を致します。
ところが昌幸は散々返事を待たせた挙句これを拒否、怒りに震える徳川勢が猛烈に上田城に攻撃を仕掛けるも、またしても昌幸の策にはまって翻弄されまくり、城攻めは失敗します。昌幸は2度も家康を翻弄した形になりました。
小良く大を制す、これを地で行った昌幸の凄まじい謀略、戦略は戦国時代のあらゆる武将でも隋一で、もしかしたら師匠筋である信玄すら上回っていたかもしれません。
戦国の華・信繁(幸村)と家を懸命に守った信之
関ヶ原戦後、家康に歯向かった昌幸と信繁(幸村)は最初は死を給わるはずでしたが、兄の信之と信之の舅である本多忠勝らの懸命の舒明嘆願に家康が折れ、結局九度山(紀州・高野山の麓)に流罪となりました。
流罪になって十数年経っても許されず、昌幸は同地で病死します。そして、一緒にいた信繁も引き続き罪人として過ごします。
その信繁に好機が訪れます。慶長19年(1614)大坂城の豊臣秀頼が徳川家康率いる幕府軍に対抗すべく挙兵するため兵を募っていたのです。ほぼすべての大名は徳川家に味方したため、全国各地にいた牢人衆に声をかけるしかありませんでした。信繁もその一人でしたが、これを好機として大坂城に入城しました。
冬の陣では「真田丸」を築いて散々に徳川方を翻弄します。これについては2015年放映の大河ドラマ「真田丸」でも描かれていました。そして夏の陣では徳川家康の本陣に猛烈に突込み、あとわずかで家康の首を取るところまで行ったほどです。残念ながら最後は力尽くて討ち死にします。
とはいえ、信繁の軍略は後世に伝えられるほどの凄まじいものでした。昌幸とはまた違う勇猛さを兼ね備えた武将ぶりは、戦国武将の中でも屈指の人気を誇ります。
一方で、兄の信之は徳川家に反発した父・昌幸と弟・信繁の存在を横目に見ながら、懸命に家を守る事に尽くしました。その労苦は、恐らく父や弟よりはるかにしんどいものだったに違いありません。10万石程度の真田家を懸命に守るために、徳川幕府との折衝に苦心しつつ、両国の内政に心を砕く姿は、戦とは違うすさまじさがあったのではないでしょうか。
上田領を支配していた真田家は、やがて上田から松代(長野市付近)に転封を命じられます。これには、徳川家の真田家に対するいじめではないかと言われてもいますが、一方では関ヶ原後破却された上田城とその城下の整備が思う儘に行かず、それに対する幕府側の配慮という考えもあります。もし虐め的な配流であれば、それはそれで更なる労苦でしたでしょうし、逆に幕府側が真田家へ配慮したとするならば、信之の政治力と人間性が評価されたと言えるかもしれません。
いずれにせよ、真田家を残し、幕末までその妙脈をつないだ原動力になった信之の奮闘ぶりに、私は涙無くしては語れないものがあると思います。
華々しく戦って散った信繁、懸命に生き残りをかけた信之、この二人の凄まじい人生、どっちがすごいとかではなく、どっちもすごい武将だったと思い尊敬の念があります。
父昌幸らと共に、この真田家に対する思いをここでも語れればと思います。
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