石橋湛山は早稲田大学を卒業後、「東京毎日新聞」に入社し、ジャーナリストとしてのキャリアをスタートしました。しかし、同社はやがて経営不振に陥り、湛山は退社します。
その後、徴兵検査に合格し、入営することになります。そこでの苦労を重ねるうちに、戦争への忌避感を抱くようになり、やがて反戦論者へと変わっていきます。
湛山の苦労について綴っていきます。
東京毎日新聞社へ入社
湛山は当然ながら職を求める必要に迫られました。そんな折、大隈重信を総裁とする大日本文明協会から翻訳の仕事が舞い込みました。これは浮田和民からの指示でしたが、その後変更となり、湛山の発案で「世界の宗教」という編纂書を刊行することになりました。これは仏教やキリスト教を含む世界のあらゆる宗教を一冊の本にまとめて紹介する壮大な計画であり、杉森が指摘する湛山の「人を凌ぐ意気」を表しています。ただし、実際には湛山は序論の「宗教の本質」の部分を執筆しただけで、しかもそれすら小山東助との共同執筆でした。実はこの年の12月、島村抱月の紹介で湛山は東京毎日新聞への入社が決定し、もはや著述どころではなくなりました。
「東京毎日新聞」は明治3年(1870)に「横浜毎日新聞」として創刊され、明治39年から同名となりました(現在の毎日新聞とは異なります)。従来、政界の重鎮である島田三郎が同社のオーナーでしたが、この頃、大隈に経営が委ねられ、大隈はこの新聞を東京における「ロンドン・タイムズ」に匹敵する水準の高い新聞にしようという意図から、田中穂積早稲田大学教授を副社長兼主筆に抜擢し、事実上の主宰者としました。抱月はこの田中と深交があり、いわば就職浪人中の湛山を推薦してくれたのです。
湛山自身、大学を卒業するまで文筆界で働くことなど夢想だにしませんでした。しかし、抱月の手引きで湛山は言論界の入り口に立ったのです。それは彼の人生の重大な転換点でした。もし抱月の推しがなければ、ジャーナリスト湛山は日本に生まれなかったことでしょう。
「私は自分の過去を回想すればするほど、偶然が人生を支配する力の大なることを考えざるを得ない」とは、湛山の実感であったでしょう。湛山は抱月が主宰した「早稲田文学」に投稿したり、抱月が女優松井須磨子とともに坪内逍遥の文芸協会に反旗を翻し、芸術座を組織した際も相談に参与しました。なお、大正7年(1918)に抱月が病没し、次いで須磨子が後追い自殺して世間の注目を集めた際、湛山は妻梅子に「もし須磨子が現れるなら、私といえどもいつ島村氏にならぬとは限らぬと戒めた」と述べています。
精力的に仕事をこなす。
入社後、湛山は社会部に配属されました。そして、初めて命じられた仕事は、大隈重信に正月のお飾りについてインタビューすることでした。大隈は名だたる大政治家であり、また早稲田大学の創立者でもあります。そのため、早稲田大学出身者であれば、通常、面会自体に恐縮し、身に余る光栄と感じることでしょう。
ところが湛山は全くそのような風はなく、一応仕事をこなしながらも、天下の政治家にこの種の低次元の質問をさせる社の方針に不快感を覚えました。これまで社会の喧騒に揉まれていない湛山は、あくまで純粋に正面から高次元の社会問題にアプローチできることを望んでいたのです。
まもなく湛山は文部省係に配置替えとなりました。ここでは明治42年(1909)前半に起こった高商(東京高等商業学校・一橋大学の前身)騒動を扱いました。高商はかねてより商大への昇格を期待していましたが、文部省の方針で実現不可能となり、同校長も文部省に同調したため、教授が辞職し、学生は総退学を決議するという最悪の事態となりました。湛山は他社の若い記者と相談した結果、当時財界の長老で東京商業会議所会頭の中野武営に調停を依頼することにし、中野を説得してようやく彼の尽力で騒動も収拾されました。この間、新聞記者という立場を離れ、事件解決に向けて奔走する湛山の姿は、後の早稲田大学騒動で一方の主役を演じる彼自身を連想させます。
僅かな新聞記者生活
しかし、この新聞は長くは続きませんでした。同年春以来、大隈が率いる憲政本党(民政党)内部で犬養毅と他の幹部との間に紛争が生じ、ついに分裂しました。そのため、大隈の影響下にあった社内も二派に割れ、互いに自派に有利な新聞記事を書くなどいがみ合いました。加えて売行き不振も重なり、経営は困難に陥りました。同年夏、田中が退社声明を出すと、幹部社員もこれに殉じました。
末輩の湛山は引き留められましたが、やはり8月末に退社しました。田中を介した入社であり、しかも徴兵検査で甲種合格し入営が迫っていたためです。こうして新聞記者生活はわずか7、8か月で終わりました。しかし、この間に編集方針や組版作業といったジャーナリストの基本を習得したことは、後の東洋経済新報社入社に結びつく重要な経験となりました。
苦労を重ねた兵役
退社から4か月を経た12月、湛山は友人の関与三郎と大杉潤作の二人に付き添われて、麻布の歩兵第三連隊に入営しました。入営者は通常、身内や町内の人々の賑やかな行列に送られるのが慣例でしたが、湛山の場合は極めて簡素でした。もちろん、湛山は軍隊内で新兵が非人間的な虐待を受けるであろうことを覚悟していました。ところが逆に、入隊早々から非常に厚遇されました。班長の軍曹から丁寧に挨拶され、新平係の少尉からは中隊将校室に呼ばれて餅菓子をご馳走になるといった具合でした。数か月後、真相が判明しました。湛山は連隊上層部から社会主義者と疑われ、監視のための特別な厚遇措置であったのです。大逆事件、つまり幸徳秋水ら社会主義者や無政府主義者が明治天皇暗殺計画の疑いで逮捕される事件が発生したのは明治43年(1910)5月であり、まさに湛山が社会主義者に擬せられていた頃です。まもなく湛山への疑惑が氷解したことは言うまでもありません。
それでも湛山は新兵として苦労を重ねました。入営時に15貫(約60キロ)あった体重は、たちまち12貫(約48キロ)台に減り、在営中に回復しませんでした。また、湛山は軍隊に在籍した1年間に戦争への嫌悪の情を深くしました。実弾演習にも恐怖感を覚えました。その後、湛山は反戦論を高く掲げることになりますが、それは彼本来の思想や理論ばかりでなく、この軍隊生活での様々な体験に基づいていました。
同年11月、湛山は軍曹に昇進し除隊となりました。そして翌年9月には見習士官として3か月召集を受け、終末試験を好成績でパスし、後に少尉の任官事例を得ることとなりました。
(続きます)
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