一昨日の11月17日、兵庫県知事選が行われました。
いわゆるパワハラ疑惑で失職した斎藤元彦氏が、何と再選を果たしました。「何と」と感じたのは、私個人として、パワハラ問題を起こした(とされる)斎藤氏が、兵庫県民の多くに選ばれたことに対してでした。パワハラ疑惑が本当なのか、それとも実ははめられたのか、もはやはっきりとは分かりませんが、私としては、斎藤氏や対抗馬である稲村和美氏の資質の問題ではないと考えています。
SNSでの拡散による風評が、これほどまでに大きな影響を与えるとは思いもしませんでしたし、既存メディアへの不信感が予想以上に強かった点も大きな要因だったのでしょう。ただし、これらの理由だけで結論を出すことはできません。私が知らない、地元の方々の思いがあるはずです。
客観的事実より、盲目的に信じる事を優先
まずは、個人的な資質はともかくとして、斎藤氏の3年間の県政に対する評価が高かった点は再考すべきだと思います。
恐らく、斎藤氏の前任者が20年間も県政を続けたことに対する弊害を、かなりの県民が感じていた(あるいは感じさせられていた)ようです。従来通りの、あまり役人が働かないような雰囲気を、斎藤氏は打破し、既存の権益を倒すことで、刷新感の強い政治姿勢をアピールしたのでしょう。これが支持を集めたのではないかと考えられます。
また、大学無償化など、一部の層に熱烈に評価された政策も多かったようです。政策面だけを見ると、一定の支持を受けるのも納得できる点が多く、評価されるのは理解できます。
しかし、人が二人亡くなっているという事実は消えません。この点について、兵庫県民はどのように考えているのでしょうか?もしも「亡くなった人の自己責任だろう」「道義的な問題よりも政策を重視すべきだ」といった選択を、兵庫県民が積極的にしたのであれば、私はもはや何も言うことはありません。
斎藤氏に投票した方々の多くは(すべてではないと思いますが)、バランスよく客観的に斎藤氏のこれまでの政策や人物像を評価して選んだというよりも、良かったとされる政策面を「盲目的に」信じて投票したという側面が大きかったのではないでしょうか。
稲村和美氏の敗因
正直言って、私は今回の兵庫県知事選は、稲村和美氏の圧勝で終わるだろうと思っていました。尼崎市長を3期12年間務めた実績は輝かしいもので、本来、政策面での実績という点では稲村氏の方がはるかに優れていたように感じました(具体的な内容は割愛しますが)。
もちろん、一市政と県政ではその範囲が異なるため、一概には比較できませんが、稲村氏の尼崎市長としての実績を見れば、斎藤氏が再選する可能性はもはやないのではないか、とさえ思えました。
しかし、結果は…あっけなく斎藤氏に敗れる形となりました。
稲村氏は恐らく、「従来通りの選挙活動」を行ったのだと思います。メディア戦略も常道を歩み、SNSでの活動もまったく行っていなかったわけではなく、それなりに力を入れていたことでしょう。
ただ、それが結果として「従来通りの政治家」という印象を強く与えてしまったのかもしれません。そして、投票の2日前に兵庫県内の22市長が一斉に「稲村氏を応援する」と表明したことが、逆効果だったのでしょう。このタイミングでの動きによって、「結局、稲村氏は既得権益側の支持を受けているのだ」と思われ、斎藤氏に勢いがつき、最終的に票が流れる結果となったのではないでしょうか。
SNSの魔物 既存メディアへの不信感
でもやはり、最大の要因は「SNS」を駆使した選挙戦を勝ち抜いた斎藤氏側にあると思います。失職した当初、斎藤氏はほぼ全国を敵に回したような状況でしたが、選挙戦が始まると風向きが一変しました。「斎藤氏はしっかりやっている」「斎藤さんがかわいそうだ」「独りで戦っているんだ!」という、「可哀そうな斎藤さん」を応援しようという雰囲気が広がったのです。
これこそ、盲目的に一心に信じ、見たくないものは見ないといった、いわば応援団的な姿勢が浮き彫りになった瞬間だったように思います。そして、この現象は、先のアメリカ大統領選でトランプ氏が当選した姿にも似ていると感じました。
この斎藤氏の再選については、X(旧Twitter)上でも様々な意見が飛び交っていました。
トランプと石丸伸二と斎藤元彦と玉木雄一郎に共通しているのは既存の支配層に挑戦してるというポーズだと思う。だが彼らを支持している人たちは「みんなにとって良い国」ではなく「自分にとって良い国」を望んでるだけなので福祉国家や社会主義には向かわない。俺にも金と権力を寄越せと言ってるだけ。
私が一番強く感じていたのは、この意見です。支持している人たちの多くは、「自分にとって都合の良い国」「自分だけ今だけ心地よい状態を維持したい」と考えている人々に見えます。もちろん、そのような人ばかりではないでしょう。しかし、私は、この熱狂こそが「今この瞬間」しか見えていない状況だと感じていました。
声の大きな人が威圧しつづけると心は死ぬ、やがてふと消えてしまいたくなる。自殺した人たちが気の毒でならない。
斎藤氏も、その支持者たちも、いわゆる「声が大きい人たち」だったと言えるでしょう。亡くなった方々のことを考えると、胸が痛みます。そして、何よりも私が強く感じるのは、2人の命が失われたという事実があるにもかかわらず、県政への評価がそれを上回る結果となったということです。知事と亡くなった方々との相関関係ははっきりしない部分も多いものの、それでもこの事実から目を背けて再選を選んだという現実には、正直なところ恐怖を感じます。
斎藤元彦・玉木雄一郎・石丸伸二、これら三人には共通するものがある。学歴エリートであり、他者の痛みへの想像力に欠け、知能はあっても知性はない。問題はこのタイプの人間が人気を博す理由だ。この原因は若い世代の「自由からの逃走」だと思う。自分で考えたくないのだ。
このお三方は最近、非常に人気がありますが、確かに学歴は非常に優れていますね。頭脳明晰で、知能も高いはずです。しかし、人への思いやりや共感、本当の意味での教養や知性、品格が備わっているかどうかは、非常に疑わしいと感じます。それでも、悲しいことに、この三方には多くの支持者がいます。このような人物に熱狂する状況は、まさにおっしゃる通り「自由からの逃走」そのものなのでしょう。もはや、自分で考えることを放棄し、盲目的に言うことを鵜呑みにして心地よい状況に浸りたいだけなのでしょう。
真実が虚偽に敗れた、誠実が不実に敗れた、寛容が傲慢に敗れた、賢明が蒙昧に敗れた、正気が狂気に敗れた兵庫県知事選。この深刻な民主主義の危機は、メディアと教育の責任だ。
まさに、メディアと教育、この影響は計り知れないほど強いですね。
教育に関しては、長年続いてきた受験戦争的な詰め込み教育の弊害があると言わざるを得ませんが、もちろん、すべてが悪いわけではなく、一定の効果は認めるべきでしょう。しかし、思考力を奪う教育になっているのは事実だと思います。この点に関しては、もしかすると最近、少しずつ変わりつつあるのかもしれませんね。
メディアについては、その責任は非常に重大です。記事は当たり障りのない軽い内容で、取材は生の声よりも受けを狙った商業主義が優先されるようになりました。これに毒された結果が、今日のこの状況を招いたのでしょう。
とりあえず落ち込む気持ちを抑えて懸命に書きましたが、この状況には本当に憂慮せざるを得ません。今後の日本、もっと言うなら私たちが住んでいる地域や取り巻く環境がどうなっていくのか、もはや先が見えないと言っても過言ではないでしょう。ますます、自分の好きなことだけをしていたいという気持ちが強くなりますが、それすらも許さない社会になるのではないか、そうした不安を抱えています。
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