散歩コースの紹介、第4回目です。今回は「永福町~高円寺」というコースの散歩です。
2023年9月にこのコースは、主催している「(仮称)歴史散歩サークル」でイベントを開催しました。👉[mixi] (仮称)歴史☆散歩サークル | 募集終了【9月30日(土)】永福町~高円寺を歩く散歩
主なコース
永福町駅~龍光寺~和泉熊野神社~大圓寺~鞍掛の松~大宮八幡神社~和田堀公園~郷土博物館~済美橋~妙法寺(飲食店多数あり、30分ほど休憩したほうが良い)~真盛寺~蚕糸の森~高円寺~氷川神社(気象神社)~高円寺駅
永福町の寺社巡り
まず、永福町の駅前からスタートします。永福町というのは京王線の駅になります。もともとは文化人が多く住む場所だったようです。
そして、永福町というと「大勝軒」というラーメン屋さんが有名!
永福町駅ビルの屋上から撮影した大勝軒の写真です。(見づらくてすいません💦)
ここからは見づらいですが、常に行列ができるほどの人気店です。まだ食べに行ったことがありませんが、一度時間を作って行列待ちしたいです。
永福町は寺社が多い街です。その寺社をいくつか紹介します。
龍光寺
泉涌山医王院と号する真言宗室生寺派の寺院です。本尊は薬師如来立像で、杉並区内では珍しい平安時代末期(12世紀前半)に造立されたものです。龍観和尚(明応2年1493年寂)が開山となり、承安2年(1172年)に創建されました。
江戸時代、当寺の本尊は難病に御利益がある薬師如来として信仰を集め、護摩の煙が絶えませんでした。戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保2年(1742年)銘の梵鐘にも、「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていました。
和泉熊野神社
紀州の熊野本宮大社の御分霊を祀る当社は、文久4年に創建されました。現在の社殿は文久3年に造営され、明治4年に修復されたものです。境内には樹木が多く、徳川家光が鷹狩の際に植えたクロ松が御神木として高くそびえています。
大圓寺
曹洞宗寺院の大円寺は、泉谷山と号します。
大円寺は、慶長8年(1603年)に江戸赤坂溜池の辺りで徳川家康が開基となって創建されました。寛永18年(1641年)に伊皿子(港区三田高輪辺)へ移転し、寺号を大渕寺から大円寺へ改めました。島津家の江戸菩提寺となったほか、塔頭2院も大久保科・旗本五井・松平・本多・土方の諸家中等を檀徒として栄えました。明治維新後、寺院の発展を図り、明治41年に当地へ移転しました。
大宮八幡神社
さらに、大宮八幡神社という非常に大きな神社があります。八幡神社は、おそらく関東で最も多い神社の一つだと思います。特に関東の八幡宮には「源義家(八幡太郎義家)」の伝承があり、彼が奥州征伐(後三年の役)に出陣する際に立ち寄ったとか、また奥州征伐の戦勝に感謝して神社に寄進したなどの伝承が残っています。関東には、太田道灌とこの義家に関する伝承が実に多いですね。
旗が裏返ってしまいましたが💦
こちらは、鞍掛の松です。源義家が奥州征伐の際に、鞍を掛けたとされます。
大宮八幡神社
鎮守府将軍源頼義公が前九年の役に赴く途次、この地で八条の白雲の瑞祥を見、奥州平定後の凱旋の折に、康平6年(1063年)に京都・石清水八幡宮の御分霊を勧請し創建しました。武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」と称され、「東京のへそ・子育厄除八幡さま」として親しまれています。また、平成25年(2013年)には御鎮座950年式年大祭を迎えました。
~伝承~
第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053〜57年)に、奥州で前九年の役が起こりました。この乱を鎮めよとの勅命を受けた鎮守府将軍・源頼義公の軍が大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびき、まるで源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜び、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋の折、誓いの通り康平6年(1063年)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。これが当宮の創建の縁起です。
ここから善福寺川付近を歩きます。和田堀公園という川に沿って広がる公園があります。この公園は防災公園で、河川の氾濫に備えるために作られました。
その後、杉並区立の郷土博物館で見学を兼ねて休憩します。資料館だけでなく古民家なども保存されています。
放浪記作家由来の妙法寺へ
このあと、さらに北上して妙法寺に差し掛かります。
妙法寺
日蓮宗の寺院で、山号は日円山です。日蓮宗の由緒寺院であり、49本山の1つです(日蓮・法華宗諸派のうち教団「日蓮宗」には、総本山久遠寺の下に七大本山と49本山があり、あわせて57本山とも称されます)。
元は真言宗の尼寺でしたが、江戸初期の元和年間(1615〜1623年)に日蓮宗に改宗し、妙法寺と号しました。当時、日蓮宗の大刹であった碑文谷法華寺から祖師像(日蓮像)を譲り受け、厄除けのご利益があるとして信仰を集めました。第二次大戦の戦禍を免れた、東京都区部では数少ない江戸時代の建物がまとまって残る大寺です。
この妙法寺の境内には、作家の林芙美子が住んでいたと言われています。彼女の小説で有名な「放浪記」は、この地で書かれたとされています。
妙法寺の祖師堂と仁王門は東京都指定有形文化財に指定されており、ジョサイヤ・コンドル作の鉄門は国指定重要文化財となっています。
境内の一角、日朝堂の横には有吉佐和子の碑があります。有吉は学生時代から亡くなるまでこの周辺に住んでおり、執筆中の気分転換に妙法寺の境内を散策することが多かったと言われています。
高円寺へ
妙法寺からさらにJR高円寺駅方面へ向かいます。ここも非常に寺社が多い場所です。
真盛寺
天羅山養善院と号し、天台真盛宗西教寺の東京別院です。寛永8年(1631年)に湯島天神前に開創され、天和3年(1683年)に谷中清水町へ、元禄元年(1688年)には本所小梅寺町に移転し、大正11年に当地に移転しました。当寺は三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺であり、三井寺とも称されています。本山は滋賀県大津市坂本の西教寺で、本尊は阿弥陀三尊立像です。
そして、高円寺には蚕糸の森公園という非常に大きな公園があります。
蚕糸の森公園
当地に1911年5月に設置された「農商務省原蚕種製造所」に起源を持ち、1914年に「農林水産省蚕業試験所」、1937年に「蚕糸試験場」に改称された旧研究所の跡地に設置された区立公園です。
蚕糸試験場が1980年に移転した後、跡地を公園と小学校として再整備し、旧杉並区立杉並第十小学校が移転しました。公園の周囲は火災の延焼を防ぐ防火樹林帯に囲まれており、防災拠点としての役割も担っています。そのため、隣接する杉並第十小学校の校庭と公園は共用化されています。これは地域に開かれた学校として、また地域住民に小学校への理解を深めてもらうことを目的とした公園・校庭一体化計画が採用されたためです。
そして、高円寺には高円寺というお寺があるのです!(笑)
高円寺
宿鳳山と号します。弘治元年(1555年)、中野成願寺3世の建室宗正が開山しました。
かつてこの地は周辺に桃の木が多かったことから「桃園」と称され、本尊は桃園観音で、寺は桃堂の名で呼ばれていました。当寺が広くその名を知られるようになったのは、第5世の耕岳益道の時で、三代将軍徳川家光の知遇を得たことによります。現本堂裏の高台が「御殿跡」と呼ばれるのは、家光が遊猟の際に当寺に立ち寄り休息した茶室跡に由来するといわれており、付近には「御殿前」という名称が残っています。境内にある茶園の名残も家光の寄進と伝えられています。また、それまで小沢村と呼ばれていた村名を寺名を取って高円寺村と改めさせたのも家光であるといわれています。
当寺は今日までに寛保2年(1742年)、弘化4年(1847年)、明治33年、昭和20年の4度も罹災し、堂舎とともに多くの古記録類を焼失しました。現在の本堂は昭和28年に建立されたものです。
そして、最後に立ち寄るのは駅前のこの神社です!
高円寺氷川神社(気象神社)
源頼朝の奥州征伐の際、随兵の村田某が当地に留まり、武蔵国高鼻の本社からの御神意を受けて社殿を建立したことが起源とされています。昭和46年には総鋼鉄製の現社殿が造営され、現在に至ります。
境内社には日本で唯一の「気象神社」が鎮座しており、授与品には下駄型の絵馬があることでも知られています。この気象神社は、旧陸軍気象部の構内(旧馬橋4丁目、現在の高円寺北4丁目)に昭和19年4月10日に造営され、奉祀されました。途中、空襲による焼失がありましたが再建されました。太平洋戦争の終結に伴い気象部隊が解散した後、旧気象部隊関係者によって払い下げを受け、昭和23年9月18日に高円寺氷川神社へ遷宮祭が執行され、移設されたものです。
このような感じで回ります。ぜひ参考にしてみてください!下記の地図では永福町からほぼひたすら北上する感じで歩いてください。
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