先日、石橋湛山について書いていく話をしました。
石橋湛山の88年に及ぶ生涯を貫く「剛毅・反骨・熱情・楽観・リベラル・合理性」といった特異な人格は、一体どのようにして形成されたのでしょうか。やはり、幼少期から青年期に至る生活環境が彼の信条体系形成に深く寄与していると考えられます。
生誕
石橋湛山は明治17年(1884年)9月25日に東京で誕生しました。当時は欧化主義の全盛時代で、日本政府の高官や華族が条約改正のために諸外国人を鹿鳴館に招き、日夜舞踏会を催していた頃でした。湛山の実父である杉田湛誓は日蓮宗の僧侶であり、のちに日布と改名し、総本山身延山久遠寺第81世法主に選ばれた人です。
当時、父の湛誓は東京市麻布芝二本榎(現在の東京都港区日本榎)にあった日蓮宗の最高学府、東京大教院(立正大学の前身)の助教補(助手)を務めていました。
母の石橋きんは、江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋・石橋藤左衛門の次女でした。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓とも親しかったのです。湛山は二人の長子として生まれ、当時の宗教界の因習に従い、母方の姓を名乗ったのでした。
厳格な父湛誓のもとで
翌年、湛誓が郷里の山梨県巨摩郡増穂村の昌福寺住職へ転任したため、湛山は母とともに甲府市稲門へと移住しました。都会暮らしに慣れていた母のきんにとっては、田舎での生活は寂しくかつ窮屈であっただろうと思われます。
その母のもとで、幼少期の湛山は東京の「坊ちゃん」風に育てられました。木登りや水泳は固く禁じられていたため、地元の子供たちとはかなり隔たりがあったことでしょう。
明治22年(1889年)4月、大日本帝国憲法の発布直後に稲門尋常小学校に入学しました。そして、同3年生の7歳の時、湛山は初めて父と同居することになり、稲門から約20キロ奥まった増穂村の小学校に転校しました。
こうして、世俗社会とは異質な寺院での生活が始まりました。湛山は学校から帰ると、徹頭徹尾厳格な父に呼びつけられて、漢文の素読を学ばされました。妹と弟が相次いで生まれたのはこの頃です。湛山は生まれて初めて両親や弟妹に囲まれた生活、一般家庭で営まれるごく普通の団欒生活を味わうことができました。しかし、それも長くは続きませんでした。
父母と離れて
日清戦争が勃発した明治27年(1894年)湛山が10歳の頃、父が静岡市池田の本覚寺住職に転任することになり、湛山は中巨摩郡鏡中条村の長遠寺住職である望月日謙に預けられました。日謙はのちに身延山久遠寺第83世法主となった傑僧で、湛誓の厳格さに比べて、包容力があり、多くの有能な人材を育てた人物として知られています。日本医師会会長として医学会に長く君臨した武見太郎も、かつて日謙の教えを受けて感化された一人です。
当時、湛誓と日謙は、明治維新期における廃仏毀釈運動の打撃から立ち直るため、布教活動はもとより、県内の日蓮宗僧を率いて学校を建設したり、雑誌を創刊するなど、一連の改革に携わった同志でもありました。湛誓はこの進歩的で「春風のかおるがごとき」日謙に我が子の教育を託しました。それにより、湛山と湛誓の実質的な親子の関係は断たれました。湛山は幾度となく手紙を出しましたが、父母から返事をもらうことはできませんでした。
後年、湛山が父に対して日謙に預けられた理由を尋ねると、湛誓の返答は、「孟子に『古着子をかえて、之を教ゆ(自分の子を教えることは難しいから、他人の子を取り換えて教える)』とあるではないか」という一言であったそうです。湛山自身は、「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいは、そのあまりに厳格な性格に耐えられず、失敗していたかもしれません。望月上人の薫陶を受けられたことは、一生の幸福でした。そのようにしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と述懐しています。
とはいえ、まだ自立するには早く、父母の愛情を欲しながらも満たされない日々を送った経験が、湛山の人格形成にどのような影響を及ぼしたかは計り知れません。湛山に顕著な独立自尊・自立本願の精神は、もしかするとこのような環境が強く作用したのかもしれません。同時に、この世に生を受けて以来、実父および養父を介して日蓮宗の教義をあたかも空気のように摂取しつつ成長したことが、日蓮主義という湛山の精神的支柱の形成に大きく寄与したことは紛れもない事実です。
(続きます)
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