幼いころ、父母と離れ離れになって暮らしながらも、預けられた先で日謙師匠の薫陶で成長した湛山。
ここでは彼の中学時代を主に紹介していきます。日蓮宗の教えを受けた湛山は、中学で出会った大島校長の教えの中で、クラーク博士のようになりたいと、キリスト教の教えも併せて受けます。
日蓮宗とキリスト教の二つの宗教を、自己の精神的基盤としていく湛山の学生時代を追います。
悪童だった湛山
明治28年(1895)4月、湛山は当時山梨県内で唯一の甲府市にある山梨県立尋常小学校(現甲府第1高等学校)に入学しました。鏡中条高等小学校を2年修了(通常は4年)しただけであったにもかかわらず、同校からただ一人入試に合格しました。エリートコースへの第一歩を踏み出したと言えるでしょう。
ところが、湛山は中学校時代に2度も落第しました。「生来の怠け者でうぬぼれがあった」と本人は述べていますが、一因としては同期生と比べて2歳年少であり、体力的に劣っていたこと(体操は落第点に近かった)が考えられます。また、父母を欠いた生活による精神的な不安定さも影響したのではないかと推測されます。
日謙に預けられた湛山は、寺の修行僧数名とともに掃除や給仕などの朝夕の雑事を行う訓練を受けました。その結果、湛山は雑事を厭わず、何でも自分でこなす習慣を身につけました。一方で、湛山は鏡中条村と中学校との通学路を往復する間に買い食いし、挙句の果てには月謝を使い込むという悪童ぶりを発揮しました。湛山にもこのような一面があったのですね。しかし、日謙は湛山を叱らず、黙って学校側に返済して湛山を恐縮させ、反省させました。また、二度の落第を経て、湛山は大島正健校長に出会い、大島から「一生を支配する影響を受けた」と言われました。
大島校長とクラーク博士の教え
大島は札幌農学校(現在の北海道大学)第1期卒業生の13名の一人で、ウィリアム・クラーク博士から直接薫陶を受けた人物です。新渡戸稲造や内村鑑三の先輩にあたります。
大島は同校教授、同志社教授を経て、湛山が第5学年に進級できた明治34年(1901)春に、山梨県立第1中学校に着任しました。後に音韻学で文学博士号を授与される大島は、一方で敬虔なキリスト教徒であり、物事に拘らず意気盛んな豪傑肌で、細々とした校則を一切廃し、自主性を尊ぶアメリカ的民主主義・個人主義の教育方針で学生に接しました。それはクラークの教育そのものであったと言ってよいでしょう。
少年期の盛りにあった湛山は、従来の「べからず」一辺倒の教育方針とは全く異質な大島の寛大な態度に強烈な印象を受けました。そして、大島からしばしばクラーク博士の話を聞き、「なるほど、真の教師とはかくあるものか」と感動しました。概して日本社会では、個人主義は利己主義と即断され排撃される傾向があります(令和の21世紀の日本もさして変わりません)が、湛山は近代における個人主義がそうしたものではなく、「一切の行為の基準を自覚に求める」ことにその精髄があると理解したのです。
湛山がその生涯を通じてクラーク博士と大島の教育方針に深く感化されたことは、ジャーナリストとなった後、たびたび個人主義の教育論を唱えていることに現れています。「べからず主義の教育」「青年よ、志を大にせよ――新卒業生に対する記者の祝辞」「クラーク博士の教育」など、いずれも教育は「べからず」主義では駄目であり、世の中にあるものは何でも見せ、何でもさせて、そしてそれに惑わされないような積極的教育が必要であると説いています。さらに、青年男女に道徳教育を施そうとするならば、個人の判断力を養うことに努めなければならないとしています。
演説、文章朗読に活動を広げる
一方、中学時代の「校友会雑誌」は、湛山が4年生から5年生にかけて、校友会の学術部総会でほぼ毎回、演説や文章朗読に積極的に参加した記録を伝えています。例えば、演説では「古今亡国を例証して大に義拠らざるべからずと論じる」など、スケールの大きな演題が目を引きます。また、論説「石田三成論」では、「世人が想像するような軽薄な一個の小人ではない」と述べ、従来の史伝が「好悪によって事実を歪め、勝利を正とし、敗北を邪とする陋見」に基づいていると指摘し、「是非は後人の公説によって定まる」と論じています。「湛山随想」では、当時波紋を呼んだ政治家星亨の暗殺について「星が殺されたのは世のために実によい教訓であった」と断言し、彼の歴史や政治への強い関心を示しています。さらに「消夏随筆」では当時の仏教界を痛烈に批判し、仏教のあるべき姿を述べ、日蓮を称賛しています。
卒業の前年には、湛山が旧友の荒井金造に、「善につけ悪につけ法華経を捨てるのは地獄の業である。日本の柱となり、日本の眼目となり、日本の大船となるべしという誓いを破るべからず」と日蓮の「開目抄」の一節を書き送った事実もあり、彼の熱い宗教心を如実に物語っています。その他にも、剣道部での活動報告や強硬遠足の発表など、活発な学生生活が窺え、落第生として意気消沈している様子は全く見受けられません。
むしろ、湛山は大島校長を通じて第2のクラークになりたいと願い、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」を実践しようと心に誓ったかのように見受けられます。日清戦争後の国民的風潮として軍人が尊敬され、少年たちのあこがれの対象となったが、彼は一度たりとも軍人になりたいとは考えなかったと言われています。
早稲田大学に入学
このように、中学時代の湛山は、湛誓・日謙の下で幼少から親しんだ日蓮宗と、クラーク博士の遺志を受け継ぐ大島を介したキリスト教という二つの宗教を自己の精神的基盤とし、既に芽生えていた宗教家的かつ教育者的志望を一層深めました。つまり、青少年期の10数年に及ぶ寺院生活の中でヒューマニズム(人間の尊厳)を体得し、平和社会確立のための献身的奉仕を自然に意識して、宗教家、思想家、実践家となることを人生の目標にしたと言えるでしょう。このことが戦後期に湛山が政界へと転身する伏線となります。その意味において、彼の中学生時代は湛山の人間形成においてきわめて重要な時期であったと言えます。
明治35年(1902)3月、日英同盟締結直後、17歳の湛山は7年を要して第1中学校を卒業しました。同期生53名のうち、席次は17番目でした。この時点で湛山と正式に解明されました。4月には、第1高等学校(後の東京大学教養学部)受験のために上京しましたが、7月の試験は不合格となりました。翌年再度受験しましたが、またもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受け合格しました。9月には早稲田大学に入学することになりました。こうして郷里山梨での生活に終止符を打ち、東京での下宿生活が始まりました。
(続きます)
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