石橋湛山は、昭和初期の金解禁論争で一躍名を馳せた在野のエコノミストであり、戦後わずか2か月で総理大臣の座を去った「悲劇の宰相」として広く知られています。
しかし近年、湛山の「言論人」としての側面が大いに注目されています。つまり、湛山は確固たる見識と遠大な構想、並外れた勇気を備えた、日本では稀に見るリベラルなジャーナリスト・経世家・思想家として再認識されつつあります。
戦後日本において、日本の再建と経済復興を目指し、平和主義と外交政策に重点を置きました。また、彼の経済政策は日本の高度成長期の土台を築く一助となりました。
「小日本論」を唱え続けた湛山
まさに石橋湛山の真髄は言論人としての側面にあります。経済評論家や政治家は、言論人という源流から分岐した支流に過ぎません。その88年の生涯で残した1900余の論文は、吉野作造を凌ぐ近代的民主主義の精神を体現しており、明治・大正・昭和の各時代における日本の進むべき針路を示しています。その最たるものが「小日本主義」の提唱でしょう。
日蓮宗の仏教哲学と欧米の自由主義思想、プラグマティズム哲学をバックボーンに持つ湛山は、1910年代以降、政治・外交・経済・財政・社会・文芸など幅広い分野にわたり、当時の政府や軍部が推進する武断的な専制政治や対外膨張政策、いわゆる「大日本主義」や「大アジア主義」を厳しく批判しました。そのアンチテーゼとして「小日本主義」を掲げます。
「小日本論」とは、日本の経済規模を適切に保ち、過剰な拡張や軍事的野心を避けるべきだという考え方です。石橋湛山は、日本が資源と市場の制約に直面する中で、現実的に経済力を見積もり、国内経済の安定と発展を優先すべきだと主張しました。具体的には、日本の領土を旧来の主要四島に限定し、経済的合理主義に基づいた平和的発展を提案しました。この理論は、帝国主義に根ざした国際的な拡張主義からの脱却と、内政における経済基盤の強化を目指しています。
戦中でもぶれなかった湛山の思想と理論
湛山はさらに、満州(中国東北部)や朝鮮などの全植民地の放棄、21か条要求やシベリア出兵への反対、藩閥・軍閥政治の打破、普通選挙の即時実施を論じるなど、大正デモクラシーの新潮流の中で最も急進的な思想を掲げ、まさに「異端の言説」を展開しました。さらに1930年代以降の厳しい言論弾圧下においても、満州事変や日中戦争、2・26事件を批判し、日独伊三国軍事同盟や大東亜共栄圏構想に異を唱えるなど、自由主義者の孤塁を堅持し続けました。
盟友の清沢冽は、「日本人は戦争に信仰を有していた。日支事変以降、僕の周囲のインテリ層さえも戦争論者であった。これに心から反対した者は石橋湛山、馬場恒吾の二人くらいのものであった」とその「暗黒日記Ⅱ」に記しています。
湛山の先見性こそ今の日本に必要なモノ
終戦を境に豹変した恥ずべき日本人の多さを思うと、湛山の持つ非対称性は、日本人の責任ある生き方を見事に示した標本であったと言えるでしょう。さらに、戦後の日本が植民地なしに経済成長を遂げ、軍事大国から経済大国へと変貌し、国際社会の牽引車的役割を果たした事実は、湛山の先見性を如実に物語っています。20年後、30年後に開花するというのが、思想家石橋湛山の宿命だったのかもしれません。
この石橋湛山について、この項目では語り続けていきたいと思います。
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