織田信長とは

織田信長

歴史の話、今日は戦国時代に焦点を当てます。前回は石田三成についてでしたが、今日は織田信長につ癒えお話しします。

信長という人物は、私が歴史に興味を持つ過程で最も重要で、最も魅力的な人物でした。戦国武将には石田三成や黒田如水、真田家の面々、立花宗茂など、魅力的な人物が数多くいますが、やはり織田信長がいたからこそ、戦国時代や武将に対する興味が湧いたという事実があります。

織田信長の魅力については、「時代を変えた」「既得権益を打破した」「日本の新しい時代を切り開いた」といった「改革者」や「革命児」としての側面が取り上げられます。一方で、「破壊的な人物」「魔王」「冷酷無比」といったネガティブな印象も強く、評価が分かれる面もあります。

私は、信長が単なる両極端な面にとどまらず、むしろオーソドックスな戦略と政策をベースにした政治家・軍略家であり、戦国大名であったと思います。その延長線上で、上記のような「革命児」「改革者」「冷酷無比」「破壊者」といった面が表れたのだと思います。

尾張の一領主から東海地方の大大名となり、天下統一まであと一歩というところまで来た信長。私が抱いている彼の魅力を簡単に語りたいと思います。

信長の居城だった清須城

織田信長の経歴

織田信長は天文3年(1534年)、尾張の有力者であった織田信秀の嫡男として生まれました。父の死後、苦難の末に尾張統一を果たし、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いで今川義元を破り、一躍その名を天下にとどろかせます。永禄10年(1567年)には隣国の美濃を統一し、100万石近い所領を持つ大大名となります。翌年には足利義昭を奉じて京都に上洛し、足利幕府を支えて天下に号令する立場となります。

その後、近隣の諸大名と激しく争い、擁立した義昭とも対立を深めますが、天正元年(1573年)に義昭を京都から追放します。その後は自らが天下人となるべく中央集権的な支配を進めます。天正3年(1575年)には強力だった甲斐の武田勝頼を長篠の戦いで打ち破り、天正8年(1580年)には10年間続いた大坂石山本願寺との争いを終結させました。日本の中心部である畿内と東海地方をほぼ平定し、天下統一の基盤を固めます。

天正10年(1582年)には甲斐武田氏を滅ぼし、さらには毛利氏を屈服させるために中国地方へ遠征中、6月2日に本能寺で明智光秀に襲撃され、その生涯を閉じました。

桶狭間の戦いのセンセーショナルな様子、天下人として一気に駆け上がる姿、そして本能寺の変で命を落とすという波乱に満ちた生涯には、信長のドラマチックさが現れており、多くの人が魅了されるのだと思います。

革命児、破壊者だったのか?

信長の49年間という人生を見ていくと、実にドラマチックであり、彼の人気が根強いのは、並大抵の人生を送っていたわけではなく、波瀾万丈だったからではないでしょうか。その信長の波瀾万丈な面を強調するのが、「改革者・革命児」としての側面と「破壊者・魔王」としての面です。桶狭間での劇的な勝利、足利義昭を奉じての一気の上洛、長篠の戦いでの破壊的な勝利、そして本能寺の変での劇的な死など、その生涯を彩るエピソードには事欠きません。

また、比叡山延暦寺の僧侶たちをことごとく虐殺したり、長島一向一揆や越前一揆の面々を誰一人として許さず殺害したとされる面は「信長の残忍さ」をアピールする材料の一つとなっています。このような「極端な事例」だけを取り上げれば、確かに信長には恐ろしいし何をするかわからない一面があったと言えるでしょう。

しかし、それだけが信長という人物を作り上げた要素ではないと思います。むしろ、これらの事象は偶発的な要素が強く、こうした事例ばかりでは信長が戦国大名として、さらには天下人として羽ばたけたかどうかは極めて疑問です。

私は、信長という人は実際にはもっと基本的な要素を重視したオーソドックスな軍略家であり政治家であったと思います。そうでなければ、多くの家臣から見限られ、もっと早くに滅んでいたでしょう。

きわめてオーソドックスな戦略と政策

信長という人は、よく新しい政策を取り入れたと言われています。しかし、例えば「楽市楽座」などは、信長が導入する以前から近畿の他の大名が実施しており、信長はそれを模倣したに過ぎません。また、鉄砲をいち早く導入したとも言われていますが、必ずしも信長が最初だったわけではなく、むしろ石山本願寺攻略戦や紀州雑賀攻めでは、相手の鉄砲戦に圧倒された事実もあります。信長も鉄砲に翻弄されていたわけです。

兵農分離についても微妙で、一部でそれに近い形を取り入れた可能性はありますが、信長の全領土またはすべての配下の勢力が兵農分離だったとは思えません。この点についてはさらに検証が必要です。

むしろ、信長の凄さは、敵方や他の勢力が行っている良いものを柔軟に取り入れ、基本的な戦略を重視する点にあったのではないでしょうか。

基本的な戦略という意味では、まず桶狭間のような奇襲戦術での奇跡的勝利を二度と採用しなかった点が挙げられます。これは当たり前と言えば当たり前ですが、信長は基本的に「勝てるスタイル」が確立しない限り、ほとんど戦いに挑まなかったのです。桶狭間の戦いの勝利はあくまでもラッキーパンチであり、その後は常に敵側より絶対優勢の兵力や国力を確立し、その上で調略や外交戦を重視し、最後に相手の息の根を止めるといった戦略を取り続けました。隣国の美濃攻めには7年間、伊勢攻略には北畠家を滅ぼすまでに10年かけて真綿で首を締めるように進めました。石山本願寺攻略も10年かけてようやく勝利に近い「和睦」で終結させています。

一方で、義昭を奉じた上洛戦などでは「一気に行く必要がある」と判断し、大軍を擁して1か月もかからず成功させています。信長はこのように、時間をかけるべき時はじっくりと、短時間で済ませるべき時は一気呵成に行うという戦略を使い分けていました。

このスタイルは、成功した戦国大名においてはほぼ同様だったでしょうが、信長はそれを他の大名以上に徹底していたように感じられます。

逃げることを厭わない信長

そして、これは司馬遼太郎さんが『街道をゆく』で書いていたエピソードですが、信長が元亀元年(1570年)に朝倉氏を攻略する際、順調に越前国境沿いまで進出したものの、背後にいた同盟者の北近江浅井氏が突然裏切り、信長は挟み撃ちにされる「絶体絶命」の状態に陥りました。

私はこれこそが信長の人生の最大級の危機だったと思いますが、この危機に対し信長は躊躇することなく撤退し、京都へ逃げ帰りました。撤退戦というのは非常に困難であり、背後を襲われる危険が高く、敗北する可能性も高いからです。そのうえ、逃げ帰ることで「恥」をかき、後世に汚名を残しかねないという可能性もあります。つまり、武将にとって撤退には「危険性」と「恥」という二つの大きなマイナス面が伴います。

しかし、信長は逃げることに躊躇しませんでした。「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマが流行りましたが、信長はまさにそれを体現したと言えます。浅井長政が裏切ったと知るや、すぐに撤退を開始しました。撤退と言っても、信長は配下の兵士数十名を引き連れて京都へ一目散に逃げ、最も危険なしんがり(軍の最後尾)を同盟者の徳川家康と配下の木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)に任せました。自らは戦わず、完全に逃げるのみでした。

しかし、信長は恥も外聞もなく逃げました。逃げて命あれば、再起の機会があると考えたのでしょう。実際、信長は撤退に成功し、僅か2か月後には再び浅井・朝倉氏と姉川で戦い、苦闘の末に何とか撃退しました。

このエピソードが好きです。司馬さんは「信長の真の魅力は、この金ヶ崎の撤退戦にある」と述べていましたが、信長は恥や外聞よりも、明日を生きて再起を果たすことが大事だと考えていたのでしょう。

最も、信長はそれから12年後の本能寺の変の際には逃げることなく、本能寺で果てました。おそらく光秀が完璧な布陣を敷き、逃げることが不可能だと悟ったからでしょう。信長はその状況を迅速に判断し、諦めて死を選びました。状況に応じて素早く結論を出し、その決断を逡巡せずに実行する。このような信長の行動が、彼の成功と後世の名声に繋がったのだと思います。

信長が飛躍のきっかけとなった岐阜城にて

誰よりも辛抱強く、誰よりも人を信じ

最後に、織田信長についての印象は、気が短くてすぐに切れやすい、また猜疑心が強いというものが多いです。彼のエピソードを見ると、確かにそのような印象を抱きがちですが、戦国大名として、さらには天下人としての彼の飛躍を考えると、実際はむしろ逆の面が強いと言えます。

信長は実際には「誰よりも辛抱強いし、誰よりも人を信じていた」と言えるのです。まず、美濃攻めや伊勢攻略戦、石山本願寺攻めなど、時間をかけるべき時は徹底して時間をかけました。尾張一国の統一でさえ10年近くかかっています。さらに、足利義昭に翻弄されっぱなしだった元亀年間も、義昭と対立せず、最後の最後まで義昭を見放さず、天正元年になって義昭が反信長の兵を挙げた時点でようやく信長も義昭と戦い、追放しました。信長は、その義昭を最後の最後まで京都へ戻そうとしていたとも言われています。

このエピソードから、信長のもう一つの側面が見えてきます。実は信長は人を徹底的に信じる人物だったのではないかと感じます。もちろん、政治的な利用の面もあったとは思いますが、それにしても散々自分を裏切った者を、殺そうともせずに受け入れようとした姿は、お人好しすぎるとさえ思えるのです。

そして、信長は裏切られることが多かった人物です。実弟の信行をはじめ、浅井長政や荒木村重、さらに明智光秀にも裏切られ、最終的には詰んでしまいます。一方で、信長が一方的に同盟を破棄した形跡はほぼなく、徳川家康とは20年間攻守同盟を結び続けました。裏切りが常態化していた戦国時代において、これは非常に稀有な事例です。むしろ、武田信玄などは、今川家や北条家を平気で裏切り、その結果、領国すべてが敵対状態になることもありました。これが信玄・勝頼の負の遺産となってしまいました。

信長の辛抱強さと人を信じる姿勢は、信長の天下覇業の成功に大きく寄与したと思います。もちろん、その過程では心が折れそうな場面が幾多にもあったことでしょう。その精神的な強さこそが、本当の意味での信長を賞賛すべき点であり、後世の人間が見習うべきだと思います。

派手な成功事例だけを取り上げ、破天荒で破壊的な信長だけに目を奪われず、むしろもっと基本的なことを重視し、忍耐強く人を信じる強さこそが織田信長の真骨頂だと私は考えます。それを今後はもっと伝えられるよう努めたいと思います。

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