お城の紹介 1⃣ 彦根城 ① 主な概要

お城

なかなか手を付けられなかったお城の紹介を、これから進めてまいります。
最初にご紹介するのは、滋賀県の彦根城です。彦根城は数ある名城の中でも、私が最も好きなお城です。その魅力を皆さんにお伝えできればと思います。

こちらの写真は、彦根城天守の夜景です。私はこれまでに何度も彦根城を訪れています。城郭自体はそれほど大きくありませんが、見どころがたくさんあり、その精巧で巧妙な造りにいつも魅了されます。

彦根城の概要

彦根城(金亀城)

城のスタイル 平山城 

創建年 慶長8年(1603)創建 

創健者 井伊直勝

残っている遺構 本丸・西の丸・太鼓丸・鐘の丸・二の丸・天守閣・石垣・堀

住所 滋賀県彦根市金亀町

アクセス JR彦根駅下車 徒歩10分

  営業日 年中無休   開場時間 8:30~17:00(最終入場は16:30)

  料金 (彦根城+玄宮園) 一般1000円 小中学生300円

彦根城の歴史

1⃣ 井伊直政の遺志

彦根城の歴史は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦がきっかけです。徳川家康の大勝利に終わったこの戦いの後、戦功のあった家康の家臣・井伊直政は、18万石の大名として石田三成の居城である佐和山城に封ぜられました。

しかし、佐和山城は要衝である東海道から離れていたため、直政は城を移すことを考え、当初は「磯山」への移転を計画します。しかし、慶長7年(1602年)に直政が病没してしまい、跡を継いだ嫡子・直勝は幼少だったため、井伊家の重臣たちが直政の遺志を引き継ぎ、移転先を再検討しました。その結果、東に佐和山、西に琵琶湖を控え、三方を平地に囲まれた「金亀山」に注目します。翌慶長8年(1603年)に将軍・家康の許可を得て、築城工事が始まりました。

標高136mの金亀山で始まった築城工事は、完成すれば大坂の豊臣家を筆頭に、島津や毛利といった西国大名への備えとなる戦略的な要素を帯びていたため、幕府も井伊家だけに任せず、公儀御奉行として山城宮内少輔忠久、佐久間河内守政真、犬塚平右衛門に監督を命じました。また、伊賀、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7か国12大名に合力を命じ、事実上の「天下普請」となりました。

2⃣ 20年の歳月をかけて完成

慶長8年(1603年)に始まった工事は、元和8年(1622年)に完成し、なんと20年近い歳月を要しました。工事では、周辺の寺社や大津(坂本)、長浜(小谷)、安土(八幡・観音寺山)などの古城から石材が運ばれ、諸国から動員された石工たちによって石垣が築かれました。

慶長9年(1604年)には鐘の丸が完成し、慶長11年(1606年)には本丸天守が竣工しました。

その年の後半、井伊家の居城は佐和山から彦根城へと移されました。付随工事はその後も続けられましたが、ここまでが「第一期工事」とされています。

しかし、工事は一時中断されることになります。これは、大坂の陣が影響したためと考えられます。大坂の陣後、井伊家の領地は20万石、さらに25万石へと加増され、彦根城の工事も再開されました。この再開以降の工事は、いわゆる「天下普請」ではなく、井伊家単独で行われました。

3⃣ 井伊家30万石の居城として

彦根築城を精力的に進めた当主・直孝は、寛永9年(1632年)の正月に事実上の大老職に任ぜられ、幕政の中核を担う地位に就きました。

井伊家は明治維新に至るまで彦根藩主として領民に慕われ続けましたが、その中でも最も有名な人物といえば、13代藩主の井伊直弼でしょう。

直弼は11代藩主・直中の14男として彦根で生まれました。相次いで兄たちが早世したため、嘉永3年(1850年)に12代藩主・直亮が他界すると、直弼が13代藩主となり、「掃部頭(かもんのかみ)」を称しました。

直弼は安政5年(1858年)に大老職に就任すると、早々に強引な手法で日米修好通商条約を締結し、当時の尊攘派を激昂させました。このことをきっかけに、公卿や大名、尊攘派の間で不穏な動きが広がります。直弼は機先を制するべく、いわゆる「安政の大獄」を断行しました。

その後、直弼は朝廷が水戸藩に下した密勅の返納を強く迫りましたが、これが水戸藩の過激分子を刺激し、彼らを脱藩させる結果となりました。彼らは薩摩藩士の過激派と合流し、万延元年(1860年)3月3日、直弼は江戸城へ向かう途中で水戸浪士らに襲撃され、命を落としました。享年46歳でした。

彦根藩主として最後を務めたのは直弼の次男・直憲です。彼の代に起きた戊辰戦争では、井伊家は幕府側ではなく薩長側として参戦しました。徳川家の筆頭的存在として彦根に配されていた井伊家が、最終的には幕府に刃を向ける形となったことは、徳川政権の終焉を象徴する出来事だったのかもしれませんね。

彦根城の縄張りの見事さ

下記の写真は、彦根城の大まかな概要がわかるものです。

背後に琵琶湖を望む金亀山があり、その金亀山に天守閣が配置され、四方には堀が巡らされています。一見すると、城の規模はそれほど大きくなく、複雑に見えませんが、実際には天守閣にたどり着くまでの道のりが意外に峻険で、迷路のように入り組んでいます。

彦根駅側の正面にあたる「佐和口」から入ると、その印象はあまり感じられませんが、背後の西ノ丸方面などでは、この写真のように山の地形を巧みに活かした峻険な雰囲気がよく伝わります。

奥の方まで見事に配された石垣は、曲線を描いて配置されており、その精巧で巧妙な作りに驚かされます。

天守閣は三階三重の屋根で構成されています。屋根には「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」が多用されており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」が設けられ、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」が巡らされています。外観には重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。

天守閣は大津城から移築されたと言われ、政治的象徴としての外観の美しさはもちろん、城本来の機能である軍事面でも優れています。天守閣は昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。彦根城以外の国宝天守は、姫路城・松本城・犬山城・松江城だけです。

お城の夜景

最後に、彦根城では時折ライトアップをしています。春の桜の時期、秋の十五夜や紅葉の時期などに行われており、その写真を展開します。

ざっと紹介しましたが、今後は様々な城をさらに詳細に紹介していければと思います。また、彦根城についても、より詳細な情報を追記していければと考えています。

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