お城の紹介 3⃣ 小机城 ~関東中世の代表的古城~

お城

お城の紹介です。過去二回の彦根城、松本城は近世城郭ですが、今回は打って変わって中世古城の「小机城」を紹介します。

小机城は、鶴見川に突き出た丘陵上の要害で、15世紀半ばころ(室町時代)までには築城されていたと思われます。

小机は、神奈川湊(神奈川区)と鶴見川および鎌倉街道の交差する交通の要衝であり、横浜市北部一帯を含む支配拠点でした。文明10年(1478)には長尾景春の乱に伴う戦乱で、太田道灌によって攻め落とされています。

戦国時代には、小田原後北条氏の関東進出における重要な拠点の一つとなり、北条氏の重臣・笠原越前守信為が城代となった後、北条三郎・氏堯・氏信・氏光が城主となりました。秀吉による小田原攻めにおいては、小机城における戦闘の記録はなく、徳川家康の関東入りの後、廃城となりました。典型的な中世の城郭です。

現在は小机城址市民の森として整備され、城跡内を散策することができます。空堀や土塁・本丸・二の丸などの主要な遺構が残っており、その概要に迫りたいと思います。

小机城の概要

小机城

平山城

横浜市港北区小机町

JR横浜線小机駅から西方に徒歩10分で登城口に

残った遺構 本丸・二の丸・土塁・空堀

  

小机城の歴史

1⃣ 小机城の築城

小机城は室町時代の永享の乱(1438~39)の頃、関東管領の上杉氏によって築城されたとされますが、正確な年代は不明です。小机城の名前は、一般的にこの地が小机であることから付けられましたが、別名「根古屋城」「飯田城」とも呼ばれておりました。

2⃣ 太田道灌の小机城攻め

室町時代の1473年に関東管領の山内上杉顕定の家宰・長尾景信の死に伴い、顕定は景信の嫡子景春ではなく弟の忠景に家宰職を命じたため、景春は謀叛を起こし、自分を支持する土豪らを従え、上杉氏を攻めて武蔵から相模へと勢力を伸ばしていきます。景春の味方の中には小机城主の矢野兵庫助や豊嶋泰経らがいましたが、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が景春の拠点を攻め続けたため、泰経は1478年1月に南武蔵の最後の拠点となる小机城に逃れました。

太田道灌は、1478年2月から小机城の鶴見川沿いに位置する「亀甲山」に陣地を構えます。しかし、鶴見川の湿原の存在で攻めあぐねたため、別ルートで野毛浦から道灌屋敷に入り、丘陵伝いに道灌森に進み、更に羽沢、菅田方面から小机城を包囲し、ついに4月10日に小机城を攻め落としました。

道灌は、小机城を攻める前に、羽沢の硯松にて「小机は先ず手習いの初めにて、いろはにほてとちりぢりとなる」と歌を詠み、配下の士気を高めたと伝わります。

小机城が落ちた後、太田道灌の勢力拡大を恐れた扇谷上杉定正は、1486年に自らの館に道灌を招いて接待し、道灌が入浴中に暗殺します。この事を機に、扇谷上杉氏は多くの国人衆の信望を失い、勢力も衰えていきました。

3⃣ 後北条氏の時代

山内・扇谷の両上杉氏や太田道灌の衰亡を横目に…小田原に居を構えた伊勢宗瑞(北条早雲)は、以降小田原北条氏として氏綱・氏康・氏政・氏直と5代にわたって南関東に覇を唱えます。その北条氏の五家老の一人笠原信為は、小机城の城代として入城します。

笠原氏の治世で小机城は空堀・土塁を含めた北条流の城への改造、寺社の修復、租税の軽減(年貢を四公六民に)田畑の所有権の認可などを行います。笠原城代の約66年間の統治期間は、戦国時代の真っただ中でありながら、村民を大切にし、安定した地域の統括を行いました。

豊臣秀吉による小田原攻めの際、笠原氏や小机衆は秀吉に対して、降伏と「御朱印状」の発見を願い出、一般村民が秀吉勢の兵士らに被害を受けることが無いよう請願しています。

小田原後北条氏滅亡後は、徳川家康の直轄領となりますが、小机城自体は廃城となります。ただし、小机城代の笠原氏はその後も徳川家の旗本として仕え、武蔵国都築郡台村に領地を与えられ、二百石の処遇を受けました。

小机城の主な遺構

小机城は、鶴見川に向かって突出する丘陵の先端部に築かれています。

左上にある小机城の丘陵部分は、北・西・東の三方を鶴見川に囲まれていて、周囲の展望にも優れた要害の地でした。

右側の日産スタジアム付近はかなり低地となっており、鶴見川が氾濫したときは水びだしとなっています。

この根古屋広場から、小机城内に入っていきます。この根古屋は、城の麓にあった城主の館や家臣の屋敷地です。

当時の城主は普段はふもとで過ごし、いざ戦という時には城に詰めるというスタイルでした。

空堀と土塁

小机城には多くの空堀が残っています。東郭から西郭まで大きく囲うように堀がめぐらされ、その堀の両側に土塁を巡らせた、後北条氏の築城術「二重土塁」の遺構が残されています。

本丸の防御と敵の攻撃に対抗するために造られ、麓から攻めてくる敵に、上から弓や槍で攻撃できるようになっています。

本丸(西郭)

西郭は本丸、東郭は二の丸と位置付けられていますが、どちらが本丸だったのかは定かではありません。

四角い平面形で、全周を土塁が囲み、主軸は正確に東西南北の包囲に乗る。東側に大きな折れがあって、突出部は桝形虎口を形成していた可能性があります。

二の丸(東郭)

東郭は初期小机城の本丸であったと考えられ、後北条氏の時代に東郭から西郭に向かって大規模に回収されたものと考えられています。

西郭と東郭はつなぎの郭を介して結ばれており、行き来できる構造となっています。

形は長方形に近い平面で、西の郭に比べれば不整形です。

井楼跡・櫓跡

遠くの敵を見つけるために造られた見張り台や兵器庫があったと考えられています。

数多くの腰郭、空堀、土塁が展開しており、中世の典型的な古城を味わうことができます。2017年には続日本100名城に選ばれ、空堀や土塁の保存状態が実によく、古城ファンの方は特に楽しんでいただけるのではないでしょうか?

ぜひ足を運んでいただければと思います✨

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