フジモリ元ペルー大統領死去(Muere a los 86 años el expresidente peruano Alberto Fujimori)日系2世 その評価が二分する政治手腕

時事ネタ

ペルーの日系2世であるアルベルト・フジモリ元大統領が11日に86歳で亡くなりました。フジモリ氏は1990年4月に日系人として初めてペルーの大統領に就任し、混乱していたペルーの経済の立て直しに成功しました。

また、1996年12月の在ペルー日本人大使公邸占拠事件では、犯行グループに対し強硬な姿勢で臨み、解決に導きました。しかし、独裁的な政治手腕や政権内の腐敗が批判され、2000年11月に日本に事実上の亡命をしました。2005年10月には再びペルー大統領選に出馬するため日本を離れましたが、経由地のチリで拘束され、2007年9月にペルーへ引き渡されました。

2010年1月には、在任中にペルー軍による市民殺害事件の指揮をしたとして禁固25年の有罪判決が確定しましたが、健康状態が悪化し、入退院を繰り返しました。また、恩赦に関する判断も度々覆されました。最近では、2023年12月に憲法裁判所の判断で4年ぶりに釈放されていました。

フジモリ氏の娘であるケイコ・フジモリ氏は11日、SNSに「父はがんとの長い闘いの末、この世を去った」と投稿しました。

フジモリ氏の功罪を含む足跡を振り返っていきたいと思います。

晩年のフジモリ氏

フジモリ氏の辣腕ぶり

フジモリ氏は1938年7月、熊本県出身の両親の子としてペルーの首都リマに生まれました。ラ・モリーナ国立農科大学を卒業後、アメリカとフランスに留学し、その後母校で教授として教鞭を執り、学長も務めました。1988~89年にはテレビの教養番組の司会を務め、1990年の大統領選に立候補しました。決選投票の末、ノーベル文学賞受賞者となる作家のマリオ・バルガス・リョサ氏を破り、初当選を果たしました。

就任当初からフジモリ氏は辣腕を振るい、ハイパーインフレによる物資不足の解消に向けて経済改革を断行しました。国有企業の民営化を進める一方で、左翼ゲリラ掃討作戦を展開し治安を回復させ、外国からの投資を呼び込みました。経済立て直しに成功後は、税収増分を貧困層への福祉や教育予算に振り分け、学校や道路、厚生施設などのインフラ整備を進めました。結果、貧困層からの熱い支持を得て、1995年の大統領選で再選を果たしました。

日本との関係では、1996年12月に発生した大使公邸人質占拠事件においてフジモリ氏は陣頭指揮を執り、左翼ゲリラと対決しました。1997年4月には軍特殊部隊による突入作戦を実施し、約70人の人質を解放しました。しかし、この解決手法は非常に強権的であったため、次第にフジモリ大統領の独裁的権力に対する批判が強まっていきました。

転落、拘束、そして闘病の末

フジモリ氏が大統領を務めた90年代には、ペルーの経済再生を果たす一方で、フジモリ氏の強硬な手段が目立つようになりました。まず、軍を動かして対決姿勢を強める国会を閉鎖し、自分だけを例外とする法律を作るなど、非民主的な統治が顕著になりました。さらに90年代後半にはペルー経済が再び悪化し、フジモリ氏の手腕に対する疑問が高まりました。

2000年の大統領選で3選を果たしたものの、側近のモンテシノス国家情報部顧問が野党議員を買収する様子を撮影した映像が暴露されました。このスキャンダルにより追い込まれたフジモリ氏は、滞在先の日本からペルー国会に辞表を送付しましたが、辞表は受理されず、最終的に罷免されました。

その後、フジモリ氏は日本で事実上の亡命生活を送りましたが、逆境は続きました。2001年には、大統領在任中に左翼ゲリラと疑われた市民が軍に殺害された事件で追訴されました。さらに2005年には再びペルー大統領選に出馬しようとした際、日本を離れ、経由地のチリで身柄を拘束されました。

2007年にはチリからペルーに身柄を移送され、2010年には2つの人権侵害事件で禁固25年の判決が確定しました。その後、服役していましたが、2017年には高齢や病気を理由に一度人道的恩赦を受けました。しかし、2018年に最高裁がこれを取り消し、再び拘束されました。2023年12月には憲法裁の判断により約4年ぶりに釈放されましたが、最近ではがんなどの健康状態の悪化が続き、闘病生活を送っていました。

娘のケイコ氏とのショット

功罪半ばするフジモリ氏

フジモリ氏の評価は二分されます。一方では、彼の強引ともいえる手腕が断固たる改革と決断を促し、一定の効果を生み出しました。もう一方では、厳しい弾圧を辞さない対応が民主主義的ではなく、独裁的とされることもあります。このため、彼の統治は賛否が分かれるのが現実です。

ここに民主主義の難しさを感じます。産業革命などで経済発展が早期に進み、民主主義が根付いていた西欧諸国とは異なり、発展途上国であるペルーでは「断固たる改革」や「厳しい姿勢での断行」がないと発展が難しい側面があります。これは近代国家主義がここ200年足らずで根付いた価値観であり、この価値観を強引に世界各地に広めようとした結果、特に発展途上国では強権的な手法が経済発展を進めるために必要とされることがあると思います。

フジモリ氏は、まさに混迷し発展途上のペルーに登場した大統領でした。そのため、多くの難しい判断を迫られる場面があったでしょう。強権的に振る舞わざるを得ない状況が続いたのではないかと思います。

とはいえ、強硬な手段や態度がすべて肯定されるわけではありません。実際、左翼ゲリラと誤認された市民が亡くなるなど、許されない事態も発生しました。改革は速やかに行いつつも、その検証を怠らず、平和的に政権を引き継ぐ人を育てることが重要です。

日本でも同様の傾向が見られますが、ペルーのフジモリ氏も結局、権力に固執し続けました。2026年の大統領選への出馬予定が報じられるなど、80代後半でなお権力にこだわる姿には良い印象を持てませんでした。

ペルーの事例を通じて、民主主義が根付くのは実に難しいと感じる一方で、日本では民主主義が機能しています。そのため、この機能を維持し、独善的にならないよう防ぐ必要があると痛感しています。

とはいえ、ペルーの経済を立て直したという事実は歴史に残ります。フジモリ氏の追悼を込めて、心よりご冥福をお祈りいたします。

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