このところ、私の記事では中森明菜さんについて取り上げる機会が増えています。もうお分かりかと思いますが、私は明菜さんの大ファンです。
思い返せば、人生で初めて「推し」という存在に出会ったのが中森明菜さんでした。愛らしい顔立ちでありながら、ツッパリ的な存在とされ、次第に大人びていき、昭和を代表する歌姫へと成長した明菜さんは、私の中学・高校時代に唯一無二の存在として輝き続け、その作品に私は魅了され続けてきました。
では、なぜ私は明菜さんに夢中になったのでしょうか?そしてその思いが今も続いている理由は何か?今回は、アイドルだけでなくアーティストとして頂点に立った85年の活躍を振り返ります。
井上陽水の名曲「飾りじゃないのよ涙は」
1984年の最後の歌は、井上陽水さん作詞作曲の「飾りじゃないのよ涙は」です。この曲を明菜さんの代表曲としてあげる人はかなり多いと思います。
井上陽水さんという日本を代表するアーティストが書いた曲は、当然のことながら大きな話題を呼び、初登場で1位を獲得。その後、62.5万枚を売り上げる大ヒットを記録しました(「十戒」を超えるヒットとなりました)。
「ザ・ベストテン」では、常に2位にランクインしていたという印象がありますが、これは同時期にチェッカーズの「ジュリアに傷心」が1位を独占していたためです。
この頃、チェッカーズと中森明菜さんがヒットチャートで1位、2位を争い続け、ジャニーズや松田聖子さんに代わり、この二組が代表的なヒットメーカーとして君臨していました。
※ 当該写真はアルバム「バリエーション」から抜粋
いわゆる「十戒」的な「ツッパリソング」の雰囲気を持ちながらも、一段階大人になった印象を与える、名曲中の名曲。これ以上のヒットはもう出ないのではないかと思えるほど、心に響く曲でした。
異国風な「ミ・アモーレ」
しかし、「飾りじゃないのよ涙は」を超えるヒット曲が次に登場します。それが、1985年3月に発売された「ミ・アモーレ」です。ブラジルのサンバを思わせつつ、歌謡曲の雰囲気も残すこの曲、初めて聴いた時は正直、少しピンとこなかったというのが本音で、インパクトが薄いと感じたのも事実です。
この曲も当然のことながら1位を獲得し、ロングヒットを続け、最終的には63万枚を売り上げる大ヒットとなりました。これは前作「飾りじゃないのよ涙は」を超えるヒットです。
ツッパリでも可憐少女でもない、大人びた異国情緒を感じさせる雰囲気が、この頃の明菜さんには漂い始めていました。まさに、アーティストとして新たな境地を切り開いた瞬間だったのではないでしょうか?
また、この曲の歌詞をアレンジした12インチシングル「赤い鳥逃げた」も1位を獲得し、35万枚を売り上げる大ヒットとなり、「ミ・アモーレ」は明菜さんの代表曲となりました。
※ 当該写真はアルバム「ビターアンドスイート」から抜粋
明菜さんは、この曲のリリースと並行してアルバム「BITTER & SWEET」も発表しました。このアルバムには、いわゆる「シティポップ調」の曲が多く収められており、聴いていると、明菜さんがアーティストとして一段階成長したような感覚を覚えました。
アイドルとしての中森明菜から、アーティストとしての中森明菜へと変貌を遂げた転換点を、私は目の当たりにしたように感じました。
ダイナミックさより完成度の高さを追求?
「ミ・アモーレ」に続いて、1985年6月には「SAND BEIGE」を発売。初登場1位を記録しましたが、売り上げは46万枚とやや伸び悩みました。それでも大ヒットの範疇には入りますが、明菜さんにとっては意外に伸びなかったという印象が強かったのではないでしょうか。
この歌は、「サハラの夕陽を…」という歌詞にもあるように、中東の砂漠地帯を思わせる異国情緒満載の曲です。流れるような曲調で、明菜さんにとっては少しインパクトが弱かったのかもしれません。
続くシングル「SOLITUDE」を聴いたとき、正直なところびっくりしました。歌謡曲的なインパクトは薄く、全体的に盛り上がりに欠ける曲でしたが、明菜さんはこの歌を非常に気に入っていたようです。
湯川れい子さん作詞、タケカワユキヒデさん作曲の名曲であるこの曲ですが、当時の私は正直、あまり受け入れることができませんでした。初登場1位を獲得するも、売り上げは約33万枚と(明菜さんにして見れば)やや伸び悩みました。
「SAND BEIGE」も「SOLITUDE」も、以前の明菜さんの曲ほど強烈なインパクトはなく、印象に残りにくかったかもしれません。しかし、これらの曲には、アイドルの明菜さんから脱皮し、新たな音楽の領域を切り開こうという強い意欲が感じられました。耳障りの良い曲を出して大ヒットさせるだけではなく、ファンの期待をいい意味で裏切ろうとする明菜さんの姿勢は、時に悩ましくもありましたが、80年代を代表するアーティストとして、さらに成長しようとする意欲が感じられました。
レコード大賞受賞
この年、明菜さんは年間レコード売り上げ1位(アルバムも含めて)を獲得しました。「ミ・アモーレ」は年間2位の大ヒットとなり、レコード大賞をはじめとする多くの小さな賞を総なめにするのではないかと言われていました。そして、それはほぼ予想通りの結果となりました(当時、レコード大賞などの歌謡大賞系の権威は今よりも高かったのです)。
そして、1985年12月31日、明菜さんは当時20歳という最年少記録でレコード大賞を受賞しました。なんと、そのプレゼンターがプロ野球選手の落合博満さんだったのです。落合さんはこの年、ロッテで本塁打52本、打率.367、打点146という圧倒的な成績を残し、三冠王に輝いていました。興味深いことに、この年と翌年、二人はそれぞれレコード大賞と三冠王を連続して獲得し、ここで対面を果たしたのでした。
それはさておき、明菜さんの受賞を大ファンだった私は非常に嬉しく、心から喜びました。推しであり大ファンの明菜さんが、歌手としての頂点を迎えた瞬間を自分のことのように誇らしく感じたことを今でも鮮明に覚えています。
別に、エーショーさんが唄って取ったわけじゃないのに。
変なの。(笑)
ま、まあ、ファン心理ってそんなもんよ。ちなみにこの年は、阪神タイガースも日本一になりましたね。
とにかく、歌手としての頂点を極めた明菜さんは、更なる躍進を翌年も見せていくのです♪
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