元阪神タイガースの監督で、1985年に球団初の日本一に導いた吉田義男さんが、3日午前、兵庫県西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなりました、91歳でした。
吉田さんは京都府の出身で、山城高校から立命大学を経て、1953年に阪神へ入団。名遊撃手として、華麗な守備から「今牛若丸」の異名をとり、打者としても400勝投手の金田正一投手を得意としていました。
監督としては、1985年に21年ぶりにセリーグを制覇し、日本シリーズでも当時最強軍団だった西武ライオンズを倒し、日本一になりました。当時の阪神の日本一は、球界の枠を超え、戦後昭和史に残るセンセーショナルな出来事でした。
名ショートストップとして
吉田さんは、遊撃手(ショートストップ)として、その守備力向上に努めたそうです。寝るときと食事のとき以外は、グラブをはめて過ごしたと言われており、捕るが早いか、投げるが早いか、補給から送球までの素早さは、他の追随を許さないものだったそうです。
1955年に来日したニューヨーク・ヤンキースの選手たちの投票による「もっとも傑出した選手」に選ばれ、ヤンキースからトロフィーが送られたそうです。
また、打撃も小技が効き、俊足でもあり、新人だった1953年から13年連続で規定打席に到達。54,56年には盗塁王にも輝いています。
選手としては1962年、64年の2度にわたりセリーグ制覇を経験。特に64年は、自己最高の打率318を記録しています。
1969年に現役引退し、通算2007試合、1864安打を放ち、これはいずれも阪神球団3位の記録です。また、赤星憲広選手に抜かれるまでは、350盗塁は阪神球団最多でした。
驚異の日本一
吉田さんは、現役引退後は阪神の監督を3度務めました。1度目の75~77年の3年間は、最初の2年間は3位、2位と優勝争いをするものの、あと一歩及ばず。当時は江夏、田淵という大スターがいて、確執も噂されており、江夏投手が南海へ放出されたときは、江夏氏の恨みを買った形になってしまいました。一方で、掛布雅之選手を見出し、掛布さんも阪神を代表するスターに成長しました。
85年に監督になった2度目は、チームの改革に打って出ます。真弓明信選手を内野から右翼へ回し、岡田彰布を入団当時の二塁手に戻し、遊撃には吉田さんと似たようなタイプの名手平田勝男選手を、捕手には木戸克彦選手を抜擢し、センターラインを固めました。そして、一塁にはランディ・バース、三塁にはミスタータイガースに成長した不動の四番・掛布選手がおり、野手はまさに役者がそろった形でした。
しかし、当時の阪神は小林茂投手が引退し、エース格が不在。優勝争いは巨人・広島に比べると難しいと予想されましたが、開幕後、4月17日の甲子園での巨人戦では、槙原投手からバース・掛布・岡田の「伝説のバックスクリーン3連発」を成し遂げ、勢いに乗ります。夏場まで広島、巨人と三つ巴の激しい優勝争いをしますが、9月に入ると一気に抜け出し、21年ぶりのリーグ優勝を成し遂げます。
勢いを飼って、日本シリーズでも当時最強軍団と言われていた広岡監督率いる西武ライオンズを4勝2敗で圧倒し、悲願の日本一になります。
この年の阪神の勝ち方は、三冠王のバース選手を筆頭に、四番の掛布選手も3割40本を放ち、岡田選手、真弓選手の4人が30本塁打以上を記録する、圧倒的な打力で勢いをつける衝撃的な勝ちっぷりでした。これほど、爽快な勝ち方をするチームは、古今東西でもう出てこないんじゃないかと思うくらいです。
ただ、弱投と言われていた投手陣も強力なリリーフ陣(中西・山本和・福間)で逃げ切る体制を確立。やや心もとない先発投手も懸命に耐えました。そして堅固な守備力、当時リーグ記録を樹立した犠打数で、確率の高い野球を志していたのも事実で、それが花開いた優勝でした。
ムッシュの愛称で愛される
しかし、日本一になった2年後の阪神はダントツの最下位に落ち、吉田監督は解任されます。その後、吉田さんは野球フランス代表として、異国での野球普及に尽力します。フランス語の男性への敬称の「ムッシュ」と呼ばれるようになりました。
吉田さんの話口調は温かみがあり、人柄もとても柔らかい印象です。そこにフランス仕込みのスマートさがあり、非常に真摯なイメージです。
97.8年には3度目の監督を務められた吉田さんは、最後の最後まで阪神タイガースへの愛情を持ち続けたことでしょう。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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