以前、銀座散歩南側半分の散歩コースを当ブログにおいて紹介しました👉銀座(南側半分)
そのコースで立ち寄る場所の、より詳細な情報を紹介します。今日は豊岩稲荷神社です。ここは、軒を連ねるビルの路地裏にある神社になります。銀座はそのような路地裏の神社が実に多く、特に稲荷神社が多数です。その一つの豊岩稲荷神社を紹介します。
豊岩稲荷神社については、こちらの動画も併せてご覧ください。
(エーショー西郷作)
豊岩稲荷神社について
東京メトロ銀座駅から徒歩5分の場所にあります。ビルとビルの間に祀られ、赤い「豊岩稲荷神社」の幟が無ければ、間違いなくスルーしてしまいます。
ここは江戸時代の創建と言われています。明智光秀の家臣である安田作兵衛による当初創建され、江戸時代になると、火防神・縁結神として知られ、特に女性の参拝者が多かったそうです。
昭和になると、歌舞伎の盟友市村羽左衛門をはじめ、多くの芸能関係者の崇敬を集めたそうです。また、こちらの稲荷は水商売の方たちの信仰も篤いそうです。
このようにビルの谷間にある細い路地の奥に神社があるのです。
もともとこの神社の敷地はもっと広かったそうですが、平成6年(1994)のビル建設により縮小を余儀なくされました。そして現在、このように路地裏に建つ形になったそうです。
路地裏の奥の暗がりの中に、灯篭の光に照らされた朱色の社殿が姿を現します。路地の突き当りに社殿があります。
2体の狐の像がお出迎えします。
豊岩稲荷神社の御祭神は稲荷神(倉稲魂命=うかのみたまのみこと)。
狐たちが鎮座する扉の奥が、神社の社で、通常は扉が閉じられていて、祭礼の時などに開放されます。
安田作兵衛について
余談ですが、この神社を建立した安田作兵衛について紹介します。
安田作兵衛は安田国継ともいい、作兵衛は通称です。明智三羽烏の一人とされるほどの名将で、光秀の家臣の一人斎藤利三に仕えます。天正10年(1582)に光秀が主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒として出陣。信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森蘭丸に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を上げたという武勇伝があります。
ところが、光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れると、作兵衛は逃亡。天野源右衛門と改名し、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷らに仕えたが長続きしなかったそうです。
その後、立花宗茂に仕えて九州征伐戦で功を上げると、最後は寺沢広高に仕え、8千石を領したと言います。そして慶長2年(1597)に死去しています。
ということは、江戸時代にはすでにこの世を去っており、さらに言うと江戸・東国に彼がいたという根拠もありません。明智滅亡後は西日本に在住しているはずです。最後に仕えた寺沢氏は九州の肥前唐津城主であり、全く江戸と関連がありません。
私はてっきり安田作兵衛は徳川家康に匿われ、その縁で豊岩稲荷神社の建立をしたのかと思いましたが、その関連性もないようで、なぜ彼が建立したことになっているのかが謎です。
これについて詳しく知っている方がいたら御教授いただければ幸いです。
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