散歩コースの紹介、第6回目です。今回は「蔦屋重三郎散歩(浅草~吉原)」の散歩です。
主なコース
浅草駅・駒形橋~浅草寺~今戸神社~蔦屋重三郎菩提寺(正法寺)~平賀源内墓~石浜神社~見返り柳~耕書堂跡~吉原大門跡~吉原神社~吉原弁財天~台東区生涯学習センター~葛飾北斎の墓~上野駅へ
なお、今回の散歩で観れなかった場所もあるので、随時追記してまいります。
いよいよ、蔦屋重三郎の史跡巡りだね。
浅草と吉原の散歩、なかなか行きづらいところだけど。
楽しみだね♪
浅草寺
まず、浅草駅から定番の浅草寺へ行きます。
浅草寺
伝承では628年に隅田川で拾われた観音菩薩を草堂に安置した伝説をもちますが、江戸時代に大いに発展。徳川家の祈願所となり寺領500石を与えられ、庶民の信仰を集めます。現在の仲見世地域を含む地域には子院が展開し、一体に並木町、駒形町、諏訪町など24の門山町屋が広がりました。浅草寺境内の掃除や家事の際に駆け付け人足を務めたり年貢を納める代わりに、浅草寺から地子(地代)を免除され見世(店)の営業を許可されたのです。
主な許可された商売は、茶屋、海苔、酒、蕎麦、菜飯、鮓(寿司)、餅、菓子、煙草、楊枝、入歯、浅草紙製造、今戸焼磁器製造など多様で、雷おこし、やげん堀七味唐辛子、天麩羅中清、靏屋お米饅頭、紅梅焼梅林堂など名物も多くみられました。
雷門
正しくは「風雷神門」といいます。天慶5年(942)武蔵守平公雅によって創建されました。当初は駒形付近にあったものを、鎌倉期に今の場所に移したものです。現在のものは昭和35年(1960)再建。
宝蔵門
安房守平公雅が武蔵守に補任された天慶5年(942)に、その祈願成就の御礼として建立したのが始まりですが、数度の火災により焼失し、その都度再建されました。現在のものは昭和39年(1964)大谷重工業社長大谷米太郎夫妻の寄進により再建されました。
観音堂(本堂)
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失しましたが、信徒各位の浄財により昭和33年(1958)10月に再建されました。
五重塔
もともとは、天慶5年(942)平公雅によって建てられたと言われていますが、幾たびが炎上。江戸時代に入って慶安元年(1648)に再建された塔は、昭和20年(1945)に戦災で焼失するまで寛永寺、増上寺、天王寺の党と共に「江戸四塔」として親しまれ、安藤広重、歌川国芳らの浮世絵の格好の画材として全国に知られていました。現在のものは昭和48年(1973)に再建。
江戸時代に浅草寺を中心と発展した浅草界隈は、明暦の大火(明暦3 1657)の大家の後、江戸最大の歓楽街となる吉原(新吉原)が開かれました。江戸後期の天保12年(1841)には浅草寺北裏に歌舞伎などの芸能の拠点となる芝居町(浅草猿若町)が設立されました。歓楽街と芸能スポットを抱えた浅草は、東京の代表的アミューズメントパークとして明治以降、そして現在も大いに発展し続けています。
蔦屋重三郎が眠る正法寺
ここからは、浅草寺から北側の寺院をめぐります。
まず、縁結びスポットとして有名な「今戸神社」です。
ここは新選組の最強剣士である沖田総司が人生の最期を迎えた場所と言われています。(異説あり)
そして、さらに北へ向かい、蔦屋重三郎の眠る「正法寺」に向かいます。
正法寺
天正10年(1582)に日位上人により開山。神楽坂の善圀寺、芝の正伝寺と共に「江戸三大毘沙門天」の一画に数えられた毘沙門天を祀っています。ここに、蔦屋重三郎が葬られています。
墓所には重三郎とともに彼の実母津与も眠っています。幼くして両親は離婚し、喜多川家の養子となった重三郎ですが、耕書堂を今の日本橋に移した時、両親を呼び寄せています。寛政4年(1792)に母が亡くなると、正法寺でその菩提を弔い、太田南畝に銘を依頼しています。
現在残るのは復刻した墓碑と顕彰供養碑で、石川雅望、太田南畝の碑文を刻んでいます。
平賀源内の墓
浅草から少し北へひたすら歩いていくと、平賀源内の墓に差し掛かります。
平賀源内墓
安永8年(1779)に獄死した平賀源内は、浅草橋場の総泉寺に埋葬され、墓自体は蘭学医の杉田玄白が建てたとされています。総泉寺はその後移転しますが、墓はこの場所に再建され、昭和6年(1933)に建築家の伊東忠太の設計で、鉄筋コンクリート製です。
源内は、いわばマルチタレント的天才で、本草学者であり、戯作者、浄瑠璃作者と様々な顔を持つ天才です。蔦屋重三郎が源内の才覚に目をつけ、「吉原細見」に序文を書かせたことで、それがヒットしたのです。
源内は晩年、人を殺傷したため投獄され、破傷風によって獄死するというその華やかな障害に比して悲惨な最期を遂げました。
ここから隅田川沿いに、石浜神社があります。ここにはかつて、石浜城という城があったそうです。
吉原へ
ここから今度は西側へ向かい、吉原へ向かいます。吉原は今も歓楽街であり、なかなか足を延ばしにくい場所ですが、蔦屋重三郎を語るには欠かせない場所なので向かいます。
吉原について
元々は葺屋町(現中央区)東側の葦が茂る湿地帯の土地を整備し、寛永3年(1626)に吉原と名付けられました。しかし、江戸の発展と共に吉原が江戸の中心地になってしまう不都合が生じたため、幕府は明暦2年(1656)に浅草寺裏の千束村への移転を命じました。同8年には新吉原が完成し、営業が開始されました。
ここから、吉原の中へ入ってまいります。
見返り柳
吉原遊郭の入口付近に生えた柳の名称です。かつては山谷堀脇の土手にあったのですが、震災や戦災による焼失によって数代にわたり植え替えられています。
吉原遊郭から帰る客が、名残惜し気に振り返る様子からこの名が付いたと言われています。
耕書堂跡
吉原五十間道の左側に耕書堂はありました。安永3年(1774)には吉原の案内書である「吉原細見」の版元になり、黄表紙などの刊行も行っています。
この後、天明3年(1783)に現在の日本橋に進出、有力な字本問屋となっていきました。
吉原神社
もともと、吉原には吉徳稲荷社、榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九郎助稲荷社がありましたが、明治14年(1881)にこの5つの稲荷社が合祀され「吉原神社」となりました。九郎助稲荷は、今年の大河ドラマで綾瀬はるかさんが語り役で出演されますよね♪
吉原弁財天
もともと明治時代には弁天池という大きな池のある公園でしたが、大正12年(1923)の関東大震災で大勢の犠牲者が出たことにより、観音像が3年後に建立されました。
このように吉原の中をひたすら駆け抜けて(歩いて💦)行きましたが、細かい場所をもう少し見ていこうと思っていますので、随時追記しようと思っています。
台東区学習センター
吉原を抜け、言問通りに出て、台東区生涯学習センターで見学と休憩をします。
台東区生涯学習センター
このセンターの1階には「池波正太郎記念文庫」があり、2階には郷土・資料調査室があり、館が所蔵する「吉原細見」を中心とした「吉原細見の世界」など、江戸時代の台東区をテーマとした企画展が開催されます。
葛飾北斎の墓
最後に、かっぱ橋道具街を抜けて、浅草通りに差し掛かると、葛飾北斎の墓があります。葛飾北斎は、蔦屋重三郎の人生に密接にかかわる重要人物です。重三郎に見いだされ、その名を歴史にとどろかせたと言っても過言ではありません。
葛飾北斎の墓
北斎の墓は、幕末まで北斎の父と合葬されていましたが、現在の墓は、後に他家の養子となった次男の埼十郎が建てたとも、その娘の白井多加が建てたともいわれています。墓石正面には「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に辞世の句「ひと魂でゆく気散じゃ夏の原」が刻まれています。
葛飾北斎は、宝暦10年(1760)9月23日、江戸本所割下水(墨田区亀沢)に川村某の子として生まれました。19歳の時に、浮世絵師勝川春章の門に入り、本格的に絵画の修業を始めました。その時与えられた名前が「勝川春朗」です。寛政4年(1792)に春章が没すると、勝川派を離れ、狩野派、土佐派、琳派や西洋画なども学び、独自の画境を開きました。
北斎は奇行に富んだ人で、住居を93回も移しています。嘉永2年(1849)4月18日、江戸浅草聖天町の長屋で亡くなりました。
そして最後は上野駅へ向かうコースです。結構長い散歩ですが、一度下見したときにざっとしか見ておらず、見学し損ねた史跡がまだ多くあります。なので、また再び訪れた際にその場所を追記して掲載しますので、またご覧いただければと思います。
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