散歩レポート 越生町 9月14日 (仮称)歴史散歩サークル

散歩レポ

私は(仮称)歴史散歩サークルの主宰者です。先日、このサークルで埼玉県の越生町を歩いてきました。なお、この散歩の主催は私ではなく別の方が担当しましたので、私はサポート役に回りました。

その散歩のレポートをまとめました。越生町に行かれる方の参考になれば幸いです。

【越生散歩 主なコース】

越生駅 → (バス乗車:越生駅~小杉バス停) → 円通寺 → うめその梅の駅 → 建康寺 → 才車の堰跡 → 最勝寺 → 越生梅林 → 梅園神社 → 佐藤酒造店 → 越辺川(おっぺがわ)遊歩道 → 越生のおいしいもの案内 → 旧越生酒造 → 曙会館跡 → 越生市街地に残る古い商家 → 法恩寺 → 東武越生線・JR八高線越生駅(解散)

太田道灌ゆかりの地

この越生町は、室町時代の武将・太田道灌ゆかりの地で、道灌に関する史跡が数多くあります。駅前にも道灌の銅像が立ちます。

越生は太田道灌が出生した場所とされています。龍ヶ谷にある龍穏寺には、道灌の父・道真とともに五輪塔が祀られています。

今回は龍穏寺を訪問しませんでしたが、小杉付近には道灌ゆかりのお寺や陣屋、馬場、橋などが点在しており、そちらを巡りました。

越生駅からは、まずバスで小杉という場所へ向かいます。その後、小杉から越生駅まで歩いて戻るというのが基本的なコースです。

まず最初に訪れたのは円通寺です。

円通寺は、直接的に道灌との関わりは薄いようですが、江戸時代に龍穏寺の住職が再建したと伝えられています。

また、越生七福神巡りの一つである寿老人が祀られています。

円通寺のすぐ近くに「うめその 梅の駅」があり、そこで休憩します。

「うめその」という名の通り、この地は梅が美しく、梅のシーズンに再訪するのも良いかもしれません。

梅だけでなく、柚子も名産で、梅と柚子にちなんだお土産が数多く販売されています。

道灌橋

越辺川に差し掛かり、最勝寺に向かう途中にあるのが「道灌橋」です。

この地は「道灌」の名で知られていますが、実際には道灌の父である道真が晩年を過ごした場所です。

太田道真退隠地(埼玉県指定旧跡)

道灌の父・道真は、家督を道灌に譲った後、越生に隠遁しました。通称「自得軒」と呼ばれています。

太田道灌は文明18年(1486年)に道真を訪ね、その後、道真との最後の対面となりました。なぜなら、その翌月、道灌は主君である上杉定正に暗殺されたからです。

健康寺

道真が退隠した場所にあります。

才車の堰跡 

明和5年(1768年)に、本山派修験の山本坊配下である宝鏡院が創業した越生最初の営業用水車です。

昭和40年代まで稼働していたそうです。

最勝寺

源頼朝が家臣の児玉雲太夫に命じて、崇敬する慈光寺に建立させたのが始まりです。戦国時代には、上杉謙信が北条氏を攻略する際、上杉方の先鋒を務めた道灌の曾孫である岩付城主の太田資正が、最勝寺領内で軍勢の違乱を禁じる制札を発給しました。境内には、同時期に古河公方足利政氏の侍医を務めた名医・田代三喜の顕彰碑もあります。

下は最勝寺の写真となります👇

そして、越生と言えば、もっとも有名なのは梅が美しいことでしょう。越生梅林に差し掛かります。

越生梅林 道灌の父・道真は、歌人としても後世に名を残しています。一流の文人たちとも交流を持ち、京都から関東に下向した連歌界の第一人者・宗祇も、道真を訪れ、「梅が香にくもらはかすめ夕月夜」という句を詠みました。また、文明2年には、道真が河越城で宗祇とその師である心敬らを迎え、連歌会を催しています(河越千句)。

この千句の発句(第一句)には、心敬が道真亭の梅を賞美した「梅園に草木をなせる匂ひ哉」という句があり、越生の梅が雅人たちの心を捉える魅力があったことを物語っています。

梅の時期になったら、また足を運びたい場所ですね♪

越生町全体で「太田道灌を大河ドラマに」とアピールしています。道灌は、扇谷上杉家の家老として武蔵国を中心に関東各地を転戦し、巧みな軍略で席巻しました。一方で、江戸城、河越城、岩付城の築城にも手腕を発揮しました。主君を上回る才覚を持っていた道灌は、主君に疎まれ、最終的には殺害されてしまう「悲劇の名将」です。もし彼が天寿を全うしていたなら、関東の覇王となり、後北条氏の台頭もかなり困難だったかもしれませんね。

酒造とお豆腐と

小杉の地から、徐々に越生の町の中に入っていきます。越辺川沿いの緑道をしばし歩きます。

緑道を後にして、こちらの酒造に差し掛かり休憩しました。佐藤酒造さんです。越辺川の伏流水を使用した日本酒がとても美味しいそうです。(私は下戸なので飲めない(;’∀’))ここでは私はサイダーを飲みます。サイダーも美味しいお水を使っていて飲みやすくておいしい!

ここからさらに足を延ばし、豆腐が美味しい藤屋さんに立ち寄ります。豆腐を使ったスイーツもあり、私晴アリーズケーキを召し上がります。なお、にゃんこ🐈がいました。(笑)

このあと、コッペパンが美味しいお店にも寄り、ここでも食べたのですが、食べるのに夢中で写真を撮り忘れました💦(すみません😓)

昭和世代に魅惑のアミューズメントパークが!?

さて、さらに越生の駅に向かって歩いていくのですが…。びっくりする光景がある場所に差し掛かりました(;’∀’)

な、なんじゃこれは~(≧◇≦)

ここは「旧越生酒造」という場所で、かつてはお店があったのですが、今はお店は閉鎖しています。敷地の奥は稼働しているようなのですが。

それにしても、サンタクロースやバス、鉄人28号、スパイダーマンなど、まるで昭和期のヒーローたちが勢ぞろいしているようです!さらには、色鮮やかな郵便ポストや象の像など、取り合わせが非常にユニークです。(笑)

昭和30年代と思われる映画の看板などもありますし、ガンダムのザクかグフと思われるモビルスーツも置いてましたね(;”∀”)

今回の散歩の参加者は、私も含めてほぼ40〜60代の人たちでしたが、その世代がハマる「昭和のアミューズメントパーク」が越生町に現れました!もっとじっくり見たかったです。(笑)

越生団扇

さて、越生と言えば名産品があります。「越生団扇」です。全国には団扇の名産地がいくつかあるのですが、越生もその一つです。

越生団扇と「うちわ工房 しまの」

明治9年刊行の「武蔵野国郡村誌」には、「団扇生産年42万本」とあるように、越生の一大産業でした。その後、明治末期には240万本の製造数に達したそうです。

現在は、「うちわ工房 しまの」さんだけが越生団扇を生産しているそうです。このお店でしばらく見学とご説明を受けました。

渋沢家ゆかりの地

最近、わがコミュニティでは「渋沢栄一とその一族」に関わる史跡を巡ることが多く、今回の越生もその渋沢栄一とその一族ゆかりの地があります。

こちらは、渋沢栄一とその従兄の尾高惇忠が宿泊したことのある家だそうです。

泊ったのはいつのときか。高崎城乗っ取りを企んだ頃か、あるいは栄一が商売に出かけるときだったのか。

越生の町自体が交通の要衝であり、物産の集散地「絹の町」として栄えていたため、藍を売る途上で立ち寄ったのかもしれませんね。

そして、この地で命を散らせた渋沢家の人物がいます。渋沢平九郎です。

渋沢(尾高)平九郎

平九郎は、栄一の従兄であり、尾高惇忠の弟でした。栄一が渋沢の中ノ家を離れた際、中ノ家の養子となり、渋沢家を継ぎました。性格は温厚で冷静沈着、さらに勇気と決断力を持ち、写真で見る限り美男子で長身、腕力もある「知勇兼備」の人物でした。

戊辰戦争の際、彰義隊に参加しましたが敗北し、その後、惇忠や渋沢喜作とともに新たに振武軍を結成し、飯能に進軍しました。しかし、ここでも新政府軍に敗れ、敗走しました。

平九郎は惇忠らとはぐれ、飯能と越生の境にある顔振峠から黒山村(現在の越生町黒山)に下りてきたところを広島藩の斥候に発見され、3人の斥候と奮戦した後、自刃しました。享年22歳(満20歳)の若さでした。

平九郎が自刃したとされる「自刃岩」と平九郎の墓が越生町のかなり奥の方にあります。今回はいけませんでしたが、いずれ足を延ばしたい場所です。

そして、最後の見学地がこちらです。法恩寺です。

法恩寺

真言宗智山派の京都智積院の支院で、天平10年(738)行基が建立したとされますが詳細は不明です。

残っている建物はほとんど江戸期の再建で、江戸期のものがそのまま残る貴重な寺院です。

ここから駅へ行って終了!

以降は、坂戸まで戻り、ここで打ち上げを行いました!主催された方、参加された皆様お疲れさまでした!

越生町は花が綺麗で、緑多く、歴史的史跡も多くあります。美味しい食べ物も多く、温泉もあります。日帰りだけでなく、お泊りでゆっくりされるのもいい場所だと思います。ぜひ足を延ばしてください!私もまた行きます!

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