幕末風雲急を告げる日本、浦賀もその影響の波に飲み込まれていきます。
イギリス・サラセン号が
文政5年(1822年)、イギリスの捕鯨船「サラセン号」が来航した事件については、川越藩が作成した記録が残されています(前橋市立図書館に所蔵)。
この記録によると、サラセン号が浦賀に来航した理由は、薪・水・食料の不足を補うためでした。当時、捕鯨船の中には積み込んだ物資が不足し、困窮する船も多く、こうした船が日本各地で発見される事件が相次いでいました。サラセン号が東京湾の入口にあたる房総半島・洲崎沖で発見されたのは、4月29日の夕方のことです。この地域を警備していた白河藩は、江戸に向かって航行するサラセン号を警備船で追跡しました。また、浦賀奉行所に連絡が入り、与力や同心が派遣され、彼らはサラセン号に乗り込んで対応しました。
警戒強まる浦賀港
この時、浦賀奉行の小笠原長休は、サラセン号を浦賀湊へ引き入れるよう与力らに命じ、与力と同心による交渉が行われました。同時に、小笠原は川越藩と小田原藩に出兵を要請し、その後、両藩の江戸屋敷や本国から多数の藩兵が浦賀に派遣されることとなりました。サラセン号が与力に導かれて浦賀湊に碇を下ろしたのは5月1日のことで、乗船した与力によって同船がイギリスの船であり、多数の鉄砲が積み込まれていることが確認されました。一方、川越藩と小田原藩の藩兵が到着したのは5月3日の昼頃で、彼らは地元で徴発した船に乗り込み、サラセン号を取り囲みました。また、白河藩も応援に駆け付け、平根山台地の下には小田原藩が、東浦賀の海岸には白河藩が、浦賀中央の海岸には川越藩がそれぞれ陣を構えました。記録によれば、夜間には警備陣の提灯が多数掲げられ、平根山や観音崎の台場で焚かれた篝火によって浦賀沖の海は白夜のように明るかったといいます。
川越藩の場合、現在の横須賀市北部に位置する浦之郷村に陣屋を構えており、そこに配備された藩士が当面の警備を担いました。また、軍勢の中には「忍び」と呼ばれる役職に就いていた者も含まれており、彼らが記した報告書が現存しています。この報告書によれば、サラセン号の大きさは長さ約54メートル、幅約9メートルで、45人の乗組員が乗船していたとされています。また、船体は鋼鉄で覆われており、艫の部分には女性の像が設置されていたと記録されています。
沿岸住民の苦悩と不安
一方、ブラザーズ号の来航時と同様に、サラセン号の来航に際しても地元の住民が多数動員されました。サラセン号退去後、走水村、公郷村、浦之郷村、下山口村、横須賀村などの名主たちは、警備用の船や乗組員の差配を陣頭指揮した功績により、川越藩から褒美を受けました。また、現在の横浜市西南部に位置する公田村の名主も、軍馬の飼料を調達したことに対して褒美を与えられています。
サラセン号は5月8日の昼頃、水や薪、大根、鶏、生魚、米などの補給を受けた後、東京湾から撤退しました。しかし、相次ぐ異国船の来航により、住民に課される夫役の負担は増加し、彼らの苦悩は深まるばかりでした。幕府から警備陣に撤兵指示が伝えられたのは5月9日のことで、その後、川越藩、小田原藩、白河藩の重役が浦賀奉行所に集まり、浦賀奉行を交えて警備解除について打ち合わせを行いました。
川越藩兵の場合、5月10日の朝に走水村を出発し、11日に浦之郷村の陣屋を経由して進軍しました。そして、川越への帰陣が完了したのは5月13日のことでした。
※※※ このサイトは、アフェリエイト広告を掲載しております ※※※
ブログをライフワークにしてお金と自由を生み出す方法 [ 中道 あん ] 価格:1705円 |
コメント