渋沢栄一 ①少年時代 思想形成時代

少年時代

渋沢栄一の人格形成の骨格が、幕末の風雲急を告げる雰囲気に影響されて出来上がっていきます。

少年時代の思想形成

渋沢の少年時代の逸話を、『雨夜譚』からもう一つ挙げます。

ある日、渋沢家に訪れた霊媒師が憑依を装い、渋沢の「姉の病の原因は、5、60年前の無縁仏の祟りである」とほのめかしました。これを聞いた渋沢は冷静に「その頃の年号は?」と尋ねましたが、霊媒師が誤った年号を答えると、「年号を間違えるようでは、その見立ても甚だ怪しい」と批判し、霊媒師を撃退したとされています。

この逸話は、後年の渋沢が「私は少年時代から非合理を見抜く眼力を備えていた」と強調するための自慢話の一つです。しかし、渋沢自身もこの撃退の数年後には、今日から見れば非合理的とも言える攘夷実行を画策するなど、迷いを見せた時期がありました。それでも、その後に攘夷を中止する決断を下したように、彼は状況に応じて素早く思考を切り替える柔軟性を備えていました。特に維新以降の成功は、そうした合理的発想に基づくものであり、自らの少年時代にまで遡って「合理的」な思考を自讃することには、それなりの理由があったといえるでしょう。

封建的権威主義への反発

幕末期の渋沢一族は、深谷近在の資産家として成長し、その年間売り上げは1万両にも達するほどの経営規模を誇っていました。そのため、岡部藩領主・安部摂津守の御用達に任命される一方で、金銭献納の無理難題を押し付けられることも少なくありませんでした。

渋沢が17歳の時、父の名代として陣屋に出向いた際、代官・若林某から「御用金500両を払え」という一方的な厳命を受けました。これに疑問を抱いた渋沢は、「父と相談してから返答する」と冷静に答えたものの、代官から激しく罵倒されました。それでも渋沢は即答を避け、家に戻りましたが、事情を聞いた父親は「それが泣く子と地頭だ」と諦め、結局支払いを余儀なくされました。

渋沢は後年、この出来事を振り返り、『雨夜譚』で次のように記しています。
「かの代官は、言語といい動作といい、決して知識ある人とは思われぬ。かような人物が人を軽蔑するというのは、すべて官を世襲する徳川政治の弊害に他ならず、もはや弊政の極みに陥った証左である。…自分もこのまま百姓を続けていれば、彼らのような、いわば虫けら同然の智恵も分別もない者に軽蔑されるだろう。それは実に残念千万なことであり、どうしても百姓を辞めたい。余りにも馬鹿馬鹿しい話だ。」

この出来事は渋沢にとって人生の転機となる大事件でありました。多少後付けの解釈も含まれますが、代官所の下級武士から非合理な金銭を要求された怒りは、身分制度の理不尽さへの気付きや幕府批判へとつながり、やがて渋沢を尊王攘夷運動へと駆り立てる一因となりました。さらに、この認識は明治以降の渋沢が展開する「官尊民卑」の思想を生み出す原点としても、強く位置付けられていくことになります。

ペリー来航と異なる人生への転機

1853年、浦賀にペリー提督率いる黒船が来航した際、渋沢栄一はまだ13歳の少年でした。その噂は血洗島周辺にも瞬く間に広がり、「黒船来る」という話題で持ち切りだったといいます。渋沢は『雨夜譚』で当時の様子を次のように記しています。
「黒船の噂はたちまち田舎にも凄まじく響いて大変な評判となった。ヤレ日本の小船が何十艘行っても黒船の周囲が囲めぬとか、ヤレ梃子をかけても登れないとか、黒い火事のような煙を吐いて自然に歩くとか、3人寄れば黒船の話で持ち切り」

このような噂話は全国に広がったとされていますが、浦賀からさほど遠くない武蔵国血洗島では、より現実味を持って受け止められたと考えられます。

江戸時代後期、関東平野の一隅で藍玉の商いを営んでいた渋沢家の当初の将来像は、「良農となりて、農事に幾許かの新知識を加え、一村一郷の公益を謀る」というものでした。しかし、黒船来航を契機に渋沢は考えを改め、「これは百姓をしているより、この場合、微力ながら国家のために一身を犠牲にするほかはない。すなわち尊皇攘夷が主たる目的になり、ついに百姓というものに安んずることが出来なくなって、以前の目的は変更したのです」と述懐しています。

商品作物を扱う農家として、渋沢はもともと社会の変化に敏感な人物でしたが、黒船来航はさらに大きな変革を予感させる出来事でした。渋沢は時代の傍観者ではなく、変革の実践者として幕末の政治運動に積極的に身を投じていくこととなります。

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