石橋湛山 おいたち 3⃣ 早稲田大学時代

石橋湛山

石橋湛山の中学生時代は、意外にも落第を経験した生徒でした。

その彼が、やがて早稲田大学に進学し、後世に名を残すジャーナリストとなり、さらに政治家を志すようになった背景には、早稲田大学時代の経験が大きな役割を果たしました。

ここでは、彼の早稲田大学在籍時代に焦点を当てます。

早稲田大学に入学

日露戦争が勃発してから7か月が経過した明治37年(1904年)7月、石橋湛山は予科を修了し、大学部文学科(文学部)哲学科へ進級しました。

当時の校長(総長)は鳩山和夫(鳩山一郎の父)でした。文学科では、高田早苗(後に学長)、煙山専太郎、安部磯雄、内ケ崎作三郎、坪内逍遥、金子馬治、島村滝太郎、波多野精一、姉崎正治、巌谷季雄、田中喜一などの講師陣から教えを受けました。

とりわけ、田中喜一(王堂)は、湛山の哲学思想上の恩師となりました。王堂はシカゴ大学でデューイ教授に師事してプラグマティズム(実利主義ないし作用主義とも呼ばれる)を学び、帰国後、このプラグマティズム哲学を日本に初めて紹介しました。同時に、自然主義文学が勃興した明治末及び対象の時代思潮に対して厳しい批評を加え、個人主義・自由主義に立脚した評論を発表した人物です。

田中王堂の授業を批判するも

湛山は二年次に王堂の倫理学史、三年次には倫理学とゼミナールを受講しましたが、当初は他の学生同様、王堂の講義を難解と感じました。それは王堂の表現が難しかったという理由だけではなく、湛山たちが従来の「無批判に形而上学的哲学とは鋭く異なる立場にあったから」です。

周知の通り、プラグマティズムはイギリスの経験論哲学を母体とし、19世紀末アメリカの社会的土壌の中で発達した現代哲学の一派です。したがって、日本国内で当時隆盛を極めていたドイツ観念論哲学と比較すると、人間の機能を果たすことに画期的な意義がありました。つまり、思想や知識を生活や実践と切り離して考察したり、実践や技術よりも思想や知識を尊重する在り方を退ける点で新しい視点を提供したのです。

学生たちは1年ほどするとそのことに気づき、王堂を高く評価するようになりました。とりわけ湛山は、「もし今日の私の物の考え方に、何かしらの特徴があるとすれば、それは主として王堂哲学の賜物である」と公言するほど、王堂から絶大な影響を受けました。

倫理学・プラグマティズム哲学に傾注

中学時代の湛山は、人間の「生」を最高価値として体系化された仏教倫理・哲学と、アメリカ的デモクラシー思想やキリスト教倫理、つまり他人や権威によって強制されない自主自律の精神や人間の平等・博愛の精神を融合しましたが、早稲田大学時代にはさらにそれが王堂の倫理学・プラグマティズム哲学と結びつきました。

そして「初めて人生を見る目を開かれた」湛山は、一切の行為の基準を自主に求める個人主義、この個人主義を社会発展を阻害しない限り是認しようとする自由主義、さらに各個人の様々な欲望を社会発展の推進力と機能的に捉えて積極的に肯定しようとする実利主義を自己のイデオロギーとして確立しました。

湛山がカントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論哲学に関心を示さず、新興のアメリカ哲学に傾倒して自由主義と実践主義を精錬したことは、その後のリベラルな言論人・湛山の誕生を決定づけました。

凡庸の王

なお、湛山は学生時代の価値観を示す一例として、次のような記録が残されています。

明治40年(1907年)、湛山は波多野精一研究会で「ストア学派の人生観とエピクロス学派の人生観との比較研究」という題で報告を行いました。報告内容については、「石橋君は従容として壇上に上り、一度咳をしてから新学派の興起した当時の社会状態について説明し、該学派の主張が必然的に生じる理由を述べた。その後、システマティックに項目を分類して、哲学、心理学、倫理論などを詳しく解説し、終わりにストア派はコスモポリタニズムであり、エピクロス派はインディヴィデュアリズムであるが、両者がフェータリズム(宿命論)において一致すると断じた。続いて質問に移り、最後に波多野講師から詳細な批判があった」と記されています。この記録から、当時の湛山の学問的関心がどこにあったかを知ることができ、興味深いものです。

また、大学時代の湛山を知る友人である杉山考次郎(後に早稲田大学教授)は、「表裏、内外のない元気な人で、人を凌ぐ意気を持っていた。湛山は非常に特異であり、個々の能力においては非常に凡庸であったが、その能力全体の支配力においては特に非凡であった。故に彼は凡庸の王である」と述懐しています。これにより、湛山の人柄を巧みに表現しています。

早稲田文学科首席卒業も、坪内逍遥に評価されず

同年7月、22歳の湛山は文学科を首席で卒業しました。かつて中学で落第生だった彼が、大学では晴れて最優等生となったのです。彼はこれを「運命のいたずら」と自嘲的に記していますが、遅咲きの湛山にようやく春が訪れたと言えるでしょう。

卒業後、湛山は特待生に選ばれ、今日の大学院に相当する宗教研究科に進み、月額20円の支給を受けました。この制度は将来の大学教授を養成するためのものであり、湛山も教育者を目指す点で趣旨が一致していました。

しかし、湛山にはその道が開かれることはありませんでした。詳細は不明ですが、一説によれば、大学の実力者で「早稲田三尊」の一人に数えられた坪内逍遥から評価されなかったためだと言われています。湛山も、「私は坪内先生のところにはまったく出入りしなかった。あの芝居がかった講義ぶり(それが有名だったのだが)が、生意気の次第だが、私には興味がなかった」と述べています。坪内にとって、湛山が奇異な哲学に傾倒する偏屈な学生と映った可能性もあるでしょう。

こうして明治41年(1908年)7月、湛山は早稲田大学を去ることとなりました。

(続きます)

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