石橋湛山は徴兵検査に合格し、入営することになります。そこでの苦労を重ねるうちに、戦争への忌避感を抱くようになり、やがて反戦論者へと変わっていきました。
除隊後、湛山は東洋経済新報社に入り、ジャーナリストとして再スタートを切ります。
先日、石破首相が国会での所信表明演説の中で、石橋湛山内閣の施政方針演説の言葉を引用しました。湛山は日本の拡張主義を批判し、「小日本主義」を唱えた上で、「一方が得して一方が損する外交は長続きしない」と述べました。また、短命だった石橋湛山内閣の65日間の間に、石破首相自身が生まれた「縁」についても触れました。知性派の石破総理が湛山を尊敬していることはよく分かります。湛山のように、ぶれずに政策を貫いてほしいと思います。
東洋経済新報社へ
明治43年(1910年)11月末、除隊直後に田中穂積から湛山に対して東洋経済新報社の話が持ち込まれました。同社では新たに月刊誌「東洋持論」の編集記者を探していたのです。田中は新報社の副主幹格であった三浦銕太郎と早稲田大学の同窓生でした。そこで12月、湛山は三浦との面接を受けることとなり、その際に論文「福沢諭吉論」を提出しました。この論文自体は現在残されていませんが、後の湛山の言論から推測するに、福沢を合理性を備えた文明批評家として高く評価していたと考えられます。
湛山は三浦に認められ、翌明治44年1月から新報社の社員として迎えられることとなりました。これにより、湛山は言論人として再スタートを切り、26歳の時を迎えました。その後、新報社は湛山にとって、戦後の昭和21年(1946年)5月に政界入りするまでの35年間、言論活動の拠点であり続け、湛山の名前と深く結びついた存在となりました。
反権力の新報社の社風
新報社は、日清戦争終結から半年を経た明治28年(1895年)11月に、「報知新聞」の記者でイギリス留学を終えたばかりの町田忠治によって創設され、月3回の旬刊誌「東洋経済新報」を発刊しました。我が国における経済専門誌の草分け的存在である「新報」は、イギリスの「エコノミスト」と「ステチスト」を模範とし、単に経済の分野にとどまらず、政治・外交・社会・教育・文芸など幅広い領域を扱い、主として経済界関係者、政府官僚、社会人、大学生などのインテリ層を読者対象としていました。
ただし、町田は2年足らずで日本銀行に転じたため、大隈重信の推薦により、明治30年(1897年)3月に、早稲田大学教授の天野為之が新報社を引き継ぎました。
天野は第1回の衆議院総選挙に改進党から立候補して当選しましたが、次回の総選挙で落選し、その後は学会および言論界で活躍した人物です。とりわけ、彼はジョン・S・ミルの研究で知られ、明治期における三大経済学者の一人として称されるとともに、高田早苗や坪内逍遥とともに早稲田大学の三尊として高く評価されていました。
この天野時代に新報社の基礎が固まり、イギリス流の自由主義・合理主義・経験主義の伝統や反藩閥・反軍閥の気風が確立されました。例えば、日清・日露戦争後の軍部の跳梁や政治的干渉に対して厳しく批判し、陸海軍大臣の文官制や軍備削減を提唱する一方で、経済面では民力休養論を掲げ、政府が推進する保護貿易主義を排斥し、門戸開放主義を主張しました。この間、「新報」の発行部数は3千部程度から5千部程度へと飛躍的に伸び、当時の専門誌の売り上げとしては良好な数字を記録しました。ちなみに、深井英五(日銀総裁)や武藤山治(鐘紡社長)らは、初期の段階から「新報」の愛好者であったと言われています。
社会主義者「片山潜」と出会う
湛山が入社した時点では、天野はすでに退任しており、天野の門下生である植松孝昭が第3代主幹となっていました。植松は旧彦根藩士の家に生まれ、明治29年に東京専門学校英語政治学科を卒業し、2年後に新報社に入社しました。彼は特に政治・社会評論で頭角を現し、選挙権の拡張、政党内閣制度の確立、労働法の制定などを主張しました。そして明治40年には天野の跡を継いで主幹に就任しました。この植松時代に「新報」は経済専門誌の枠を超え、政治・社会の領域へと拡大し、特に民主主義の観点から普通選挙の実施を求めるなど、政府批判の姿勢を強めました。これにより、後の三浦および湛山時代に確立される新報社の徹底した自由主義、民主主義、平和主義の論調の基盤が形成されました。
主幹の植松を補佐したのが三浦でした。三浦は静岡県志田郡の豪農山下家に生まれ、結婚を機に三浦姓を名乗りました。彼は植松と東京専門学校の同期生(年齢は三浦が2歳上)であり、植松より2年遅れて新報社に入社しました。その後、植松とともに天野を支え、天野の引退後は副主幹格となりました。そして、三浦は湛山の恩人の一人となったのです。
当時の新報社は牛込天神町にあり、木造二階建ての洋館でした。社員は、編集部員が植松・三浦の両幹部を加えて9名、営業部員が4名、給仕や小使いを含めて総勢17名という陣容でした。注目すべきは、湛山と同じ編集部に社会主義者の片山潜がいたことでしょう。
(続きます)
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