石橋湛山 リベラリズムの高揚 1⃣文芸・思想・社会批評

リベラリズムの高揚

石橋湛山は東洋経済新報社に入り、ジャーナリストとして再スタートを切ります。

「東洋時論」の記者として採用

湛山は、旬刊誌「新報」ではなく、月刊誌「東洋時論」の編集記者として、明治44年(1911年)1月に採用されました。もし「時論」が存在していなかったなら、湛山と新報社との関係も生まれなかったかもしれません。そして、その後の日本近代史において異彩を放つ彼の「小日本主義」の言論も、生まれる機会を失っていた可能性があります。経済を専門とする新報社が、畑違いの哲学を修めた人物を雇ったことには、奇妙な因縁があると言えるでしょう。

この「時論」は、反藩閥、反軍閥の基本姿勢を鮮明にしていた植松及び三浦が、日露戦後の変動期において新しい視点から政治・社会・思想問題を提起し、かつ経済問題を専門とする「新報」を補完するために、明治43年5月、つまり湛山が入社する7ヶ月ほど前に創刊されたものであります。

「創刊之辞」には、「今や社会は一大変遷の過程に在り。…見よ、政治においては官僚の跋扈、経済においては即ち金力の全盛、国家においては帝国主義の跳梁、社会においては階級戦の残暴、…これは、いったい挙世権威の指導を離れ、社会がその中心を失った反映に他ならないではないか。…我東洋持論は実にこの時をもって生まれる。其の使命とする所、他にあらず。第二の維新を標榜して、新時代の建設に貢献すべき。内外百般の健全なる新思想を紹介し、社会の革新を目標として、光輝ある将来の運命を担うべき第二の国民を喚び起こすに在り」とあり、植松・三浦両人の先鋭な現状批判と社会改革の精神が示され、30代半ばの壮気が溢れています。

実際、「時論」は、明治末期に澎湃として勃興した、例えば文学界での自然主義、政界・思想界での個人主義や自由主義といった新思潮に沿って、帝国主義反対論、普通選挙実施論、個人主義擁護論、婦人解放論などの急進的な主張を掲げました。そのため、同誌は創刊号から発売禁止処分となったばかりか、その後も同様の措置を受けました。このように、イギリスの民主主義、社会主義、自由主義を言論のバックボーンとする新報社の社風や伝統は、湛山の気質に極めて適合していたと考えられます。さらに、「時論」の編集に携わるとともに、大学での学識をさらに深める機会を得ただけでなく、河上肇、永井柳太郎、田岡嶺雲、浮田和民、加藤弘之ら当代一流の学識者と接することができたことは、湛山に多大な影響を与えたはずです。こうして湛山は、日蓮宗教義、アメリカン・デモクラシー、プラグマティズム哲学に加え、新報社でのイギリス経験論・自由主義の思想哲学を習得し、いわば三重層の思想哲学を織りなすこととなったのです。

個人主義を称揚する

こうして湛山は、現状打破を志向する文芸・思想・社会批評を次々と「時論」に発表していきました。植松、三浦も、入社間もない湛山に社論の執筆を許しました。その理由は、湛山が入社以前に「太陽」、「中央公論」、「日本及日本人」、「早稲田文学」など当代の一流誌に論文を発表しており、すでに社会評論の面で一定の評価を得ていたからです。例えば、「新小説」1909年8月号の「寸鉄」では、次のように述べられています。

 「石橋湛山氏は青年評論家の中でも若い方の側だそうですが、頭が非常に利口だと見受けられます。説の是非は別として、議論を進める手腕がなかなかしっかりしています。論を進める段取りも整然としており、一糸乱れぬ風があります。片上天弦、相馬御風、中村星湖などに比べて、確実に論客としての資格において数段勝っていることは疑いありません。着実な方針で研鑽を怠らなければ、将来的には立派な評論家となることでしょう」

当時の湛山の評論の主要な対象は、自然主義文学における「自己観照(自己確立)」の問題でした。この際、湛山は社会や国家に対する個人の立場を擁護し、封建社会からの個人の徹底的な解放を説きました。つまり、国家至上主義に代わる個人主義の確立と、人間性を尊重した民主的社会の到来を予見していたのです。

「今は絶対者倒潰の時代である。そして、まさに来るべき時代は智見の時代でなければならない。…すべての方面において、人間というものが光を放ってきた」という考え方です。ただし、近代の個人主義は、古代ギリシャ時代のように「人生自然を最美最完なるもの」として、これらの改造を一切無意味とする個人主義ではなく、「社会的要素を無視できない個人主義」であり、「現実を改造して、我が要求に合致するものにしようとする個人主義」でなければならないという立場を取っていました。

理想と実践の両立

また、湛山は「観照と実行の一致」、つまり「理想と実践の両立」を不可欠とする考え方を提示しました。

「自我とは…時々に起こり来る欲望である。この欲望の満足が人間衷心の願望、最初最終の目的である。…そしてこの欲望統一の機関として人が工夫し出したものが、すなわち宗教、哲学、道徳、政治、法律その他一切の文化である。国家というものも、こうして出来たものである」と述べています。

「人が国家を形造り、国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない」とも言及しています。

この意味から、文芸と政治、その他の学問の一体化を唱え、「文芸は実に政治、道徳の批判者である。また、政治、道徳の改革者である。彼は、吾人の欲望と道徳、法律、習慣等との間に矛盾が生じた場合、最も合理的な方法を用いて、この矛盾を解消し、人生を円滑にすべき使命を負うものである」と文芸の役割を高く位置付けました。さらに、「我が国は、今やどの方面から考えてみても、どうしても、政治的ないし社会的革新の時期に近づいている。そして、この時において、我々国民に必要なものは、この革新を最も合理的かつ合法的に行うべき近代の批評的精神である。この精神を国民に鼓吹するものは、実に文芸思想家の直接の任である」と指摘し、暗に自らの社会的使命感を明示しました。

以上の所論には、湛山の言論全ての原理が凝縮されているという点で重要です。同時に、それらの原理は王堂哲学の影響を色濃く現しています。とりわけ、宗門に出で、宗教家となることを自然に意識した湛山が、宗教を道徳や政治などと同様に人間の「生活機関」の一部分として捉え、したがって、それらが「生活に不便」をもたらすものであれば、新しい方法を現実の中から探し出すべきだというプラグマティックな根拠に立ったことは、明らかに王堂哲学を継承していると言えます。そこには日蓮宗のみならず宗教一般に見られる、仏や神を介して自己を絶対化するという思想から一歩距離を置き、「間違っていれば正せばよい」という相対主義ないし改良主義があり、近代的合理主義の精神が芽生えていることが伺えます。

(続きます)

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