石橋湛山は東洋経済新報社に入り、ジャーナリストとして再スタートを切ります。
真の「民主政治・代議政治」を目指せ
前述のような原理に基づいた場合、湛山の現状批判はどのようなものであったのでしょうか。まず国民に対しては、何事においても「浅薄弱小」であり、「我れ」を忘れ、確信なく「右顧左眄」するなど「哲学が無い」と批判し、「まず哲学を持て」と勧告しました。政治に関しては、「今日の我が政治は、名目は立憲代議政治であるが、その実態は立派な一種の寡頭専制政治」であり、「議会は無力で、内閣は国民に対して直接の責任を感じておらず、政務の多くは国民とは無関係であり、従って国民の信任によって公職が交代することもなく、官僚の手によって左右されている」と批判したうえで、専制政治を打倒し、国民の要求が最も鋭敏かつ円滑に表明される代議政治・民主政治への移行を主張しました。
この議論が進む先は、普通選挙、すなわち普選の実施であったと考えられます。すでに新報社は普選論の急先鋒であり、湛山は必然的にミルやハックスレーなどの見解に大きく影響を受けました。政界では明治44年(1911年)3月に、国会議員が提出した普選法案が衆議院を通過しましたが、貴族院で否決される事態が生じました。ある日、「時論」の取材のため、湛山は当時の東京市長であった尾崎行雄を訪ねました。尾崎から普選促進論を聞くつもりであったが、意外にも普選反対論を聞くことになりました。要するに、英国のように国民がすでに政治的に訓練されていれば普選も害はないが、我が国は英国のように政治的訓練が行き届いていないため、大衆に権利を与えても社会秩序が保てない危険性があるというものでした。後に湛山は尾崎の説を一顧の価値があるものと認めましたが、当時は植松など社の幹部同様に急進的であり、「選挙権を大衆に与えることは、権利を与えると同時に彼らを政治的に教育し訓練する手段である。多少の弊害はあるにしても、これを恐れていたら、いつまでたっても社会の進歩は望めない」として、尾崎の説には賛同しませんでした。
帝国主義を批判
前後して、湛山は外交問題にも関心を広げていきました。その論調は、やはり社論に沿って、政府や軍部の帝国主義政策に対して批判的でありました。たとえば、「20世紀の世界の政治は、虚栄的帝国主義から実質的経済主義に、国権伸長主義から内治主義に、奔馬の姿をもって移り変わり生きつつある」と論じ、我が国の政治家の狭い見識を嘆きました。また、我が国の政党がことごとく大日本主義・軍備拡張主義を掲げる一方で、小日本主義・非帝国主義を主張するものがないことを論難しました。そしてこの観点から、末広重雄博士の満州放棄論、すなわち日本の南満独占を止めて国際化すべきだという主張を好意的に評価しました。いずれも概論に過ぎませんが、特色ある対外政策論であり、国内政治論とともに急進的自由主義の萌芽が見られます。
ちょうどその頃、明治天皇が崩御し、父権的な明治時代が終焉を迎えました。湛山は明治期を回顧し、この時代の最大の歴史的特徴は、多くの者が指摘する「帝国主義的発展」ではなく、「政治・法律・社会のあらゆる制度および理想に対してデモクラチックな改革を行ったことにある」との見解を示しました。さらに、「私は日清戦争の当時、一人の非戦論もなかったことを今でも遺憾に思う。また、日露戦争前に十分に反対論が上がらなかったことを深く残念に思う」と論じました。加えて、明治天皇の偉業を讃えるための明治神宮建設の方針が阪谷芳郎東京市長らによって固まると、「あなた方の考えはなぜそのように小さいのでしょうか。あなた方は、たった一つの神社を東京に建て、それで先帝陛下と、先帝陛下によって代表された明治時代を記念することができると思っているのでしょうか…どうして世界中の人々の心の奥底に、明治神宮を打ち建てることを考えないのですか」と批判しました。そして、「けち臭い木造や石造の神社などを立てるのではなく、ノーベル賞に倣って明治賞金を創設すべきだ」と提言しました。この提案は、大逆事件から2年も経たない時期に行われたものであり、相当な勇気が必要だったことでしょう。
実際の政治に目を向けていく
以上のような政治・外交評論は、次第に湛山の関心を現実の政治へと向けさせ、政治の実践の場へと駆り立てていったように思われます。「石橋湛山年譜」によれば、1912年(大正元年)12月、「憲政擁護運動の先駆けとなった憲政作振会が組織され、これを支援する」と記されています。また、翌1913年4月14日には、「将来の進むべき道を考えた結果、結局政界に出ること、そしてその準備として新哲学の樹立に努めることが最も良い道であることに考えが落ち着いた」とあり、この時点ですでに政治家を志望していたことが伺えます。したがって、同年5月に「自由思想講演会の設立に参画し、その幹事となる」ことも、政治家として民衆に接し、彼らを啓蒙するための修練の場として本人が理解していた可能性があります。ともかく、この講演会の関係者(植原悦二郎、田川大吉郎、関与三郎、田中王堂ら)とのグループ活動が、明らかに湛山の政治志向を促進し、新思潮が躍動する大正デモクラシーの最盛期にラディカルな政治思想集団への態勢を整えることとなりました。
ところで、この間の1912年9月、明治天皇の大葬が行われた際、新報社は一大危機に直面しました。この際、天野元主幹の助力を求めて「新報」の執筆陣を強化し、売行きが悪く社に大きな負担をかけていた「時論」の廃刊を決意しました。湛山もこれに同意しています。同誌での社会評論は「新報」にとっても必要であり、あえて二つの雑誌を発行する必要はないと考えたためです。この結果、「時論」は大正元年10月号をもって「新報」に併合され、湛山もまた「新報」の記者として再出発することになりました。この時、彼は28歳でした。
この転機が、結果的に湛山をジャーナリストとして大きく飛躍させることとなりました。新報社に入社以来、湛山は天野の「経済学綱要」を手始めに経済学を独学で学び始めましたが、この転任後、セリグマンの「経済原論」、トインビーの「18世紀イギリス産業革命史」、ミルの「経済原論」などを原書で読むなど、経済学の学習を本格的に開始しました。湛山の読書の場は、新報社へ通勤する間の市電の中であったと言われています。ちなみに、湛山の読書量は洋書を含め膨大であり、特に古典的名著とされる本を意欲的に読みこなしていました。こうして、従来の文芸や思想・社会評論を主体とした彼の守備範囲は、政治・外交・経済へと拡大し、その途上で対米移民不要論、21か条要求批判論、シベリア出兵反対論、植民地放棄論といった独自性にあふれる「小日本主義」の主張や、エコノミストとして一躍名を馳せた新平価金解禁論が展開されていきました。
結婚
一方で、同年、私生活にも大きな転機が訪れました。湛山は11月2日、三浦夫妻の媒酌により、岩井うめと結婚しました。うめ(梅子と改名)は、岩井尊記の三女として福島県保原町に生まれました。岩井家は、かつて米沢上杉藩で代々家老職を務めた名門の家系でした。その後、うめは福島県立高等女学校を卒業し、小学校の教員として働いていましたが、うめの小学校時代の恩師が三浦夫人であったことが、二人を結び付けるきっかけとなりました。まさに三浦夫妻が二人を結びつけたのです。
挙式後、湛山とうめは本所区(現・墨田区)錦糸町の車大工の二階に間借り生活を始め、1913年に長男湛一、1916年に長女歌子、1918年には次男和彦の二男一女をもうけました。
こうして、湛山は公私ともに心機一転し、ジャーナリストの道を本格的に歩み始めたのでした。
(続きます)
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