来年の大河ドラマの主人公「蔦屋重三郎」にスポットを当てたいと思っています。
今年の大河ドラマ『べらぼう』の主人公、蔦屋重三郎は、江戸時代中期に数多くの浮世絵やその他の作品を世に送り出し、江戸文化の発展に大きく貢献したメディア王であり、堅実な商売人でした。
この記事では、重三郎の生涯を追いながら、その足跡をたどっていきます。まずは、彼が生きた当時の江戸の世相について見ていきましょう。
文化の中心地・江戸
かつての江戸、現在の東京が世界的な大都市となった始まりは、戦乱の世を終わらせた徳川家康がこの地に幕府を開いたことに遡ります。
それ以前の江戸は、交通と経済の要衝ではありましたが、日本の政治・文化の中心地は長らく京都や大坂を中心とする上方、つまり関西圏にありました。江戸幕府が開かれ政治の中心が江戸へ移った後も、しばらくの間、文化の中心は依然として京都や大坂にありました。実際、蔦屋重三郎が生まれる50年以上前の元禄文化も、上方を中心に栄えていました。
中世の江戸は交通と経済の要衝であったものの、上方から離れた一地方都市に過ぎず、新しい文化が育つ土地ではありませんでした。しかし、家康の入府後、江戸は急速に発展を遂げます。そして江戸文化が本格的に花開き、成熟を見せたのは、幕府が開かれてから約150年後、18世紀後半の宝暦(1751~1764)から天明(1781~1789)にかけての時代です。
この時期、江戸は人口や経済の規模において上方に肩を並べるほどの成長を遂げ、政治だけでなく文化の中心地としての地位も確立しました。江戸が日本全体の中心となったこの時代は、まさに歴史的な転換期と言えるでしょう。
この元禄時代と、後の19世紀初頭に栄えた化政文化に挟まれた繁栄期は、「宝暦・天明文化」と呼ばれます。この時代に登場したのが、江戸時代を代表する名出版プロデューサー、「蔦重」こと蔦屋重三郎でした。
出版文化においても、この時代より前は上方から供給される「下り本」が主流で、江戸独自の出版物はあまり多くありませんでした。しかし、蔦重の活躍により「江戸地本」という新たな出版ブームが巻き起こり、個性的な戯作者や絵師たちが腕を競い合う時代が到来したのです。
江戸文化を後押しした田沼時代
蔦重が活躍した時代、政治の世界で権勢をふるったのが田沼意次でした。
明和9年(1772)に老中となり、約15年間にわたり幕府の実権を握った意次は、積極的な重商主義政策を推進します。この政策により江戸の経済は活発化し、都市文化の発展に大きく寄与しました。
また、それ以前の享保の改革による引き締めの反動もあってか、田沼時代は文化的に寛容な空気が漂い、武士の中にも世俗を離れ、文芸や芸術活動に向かう人々が現れます。これにより、江戸で生まれた新たな文化が地方へと広がり、全国的な影響を及ぼすようになりました。
芸術家たちが活発に活動できた背景には、彼らを支援する豪商の存在がありました。田沼意次が進めた重商主義政策は、このような豪商たちを後押しし、江戸文化の発展を促す一因となりました。その結果、江戸では文化が活性化し、自由で創造的な雰囲気が醸成されていきました。
一方で、江戸時代を通じて多かれ少なかれ行われていた賄賂や役職の売買は、田沼時代に特に顕著になります。このため、意次の政治は腐敗の象徴として批判されることもありますが、彼の重商主義政策が経済や文化の発展をもたらした点は否定できません。意次の評価は、単に賄賂の問題だけで語れるものではありません。
しかし、田沼政権にとって致命的だったのは、その末期に発生した天明の大飢饉でした。この飢饉は特に東北地方で深刻で、弘前藩では8万人、盛岡藩で4万人、八戸藩で3万人もの餓死者が出たとされています。さらに、浅間山の噴火が被害を拡大させ、加えて下総(現在の千葉県)の印旛沼干拓工事が洪水によって失敗するなど、度重なる災害が田沼政権に追い打ちをかけました。このような状況下で生活苦が広がり、各地で一揆や打ちこわしが頻発するようになります。
都市部の発展とは対照的に、農村部では幕府に対する不満が高まり続けました。その上、意次の跡継ぎである田沼意知が旗本の佐野政言に惨殺されるという衝撃的な事件が起こります。そして、意次を支えていた10代将軍徳川家治が死去すると、意次は失脚を余儀なくされました。
寛政の改革と江戸文化
田沼意次の失脚後、幕府の実権を握ったのは松平定信でした。定信が行った寛政の改革は、田沼時代の政策とは正反対のものでした。
定信は、田沼が推し進めた重商主義を否定し、緊縮財政と経済統制を徹底します。この政策は、定信の祖父である8代将軍徳川吉宗が行った享保の改革を引き継ぐものでした。
特に文化面では、定信が推進した倹約と風紀の取り締まりが大きな影響を及ぼしました。定信は、将軍から庶民に至るまで倹約を求め、混浴や女髪結い(女性が華美に髪を結い立てること)の禁止を通達します。さらに、娯楽的な書籍は厳しく規制され、江戸の街から消えていきました。
田沼時代の賄賂横行や腐敗に不満を抱いていた人々の中には、定信の清廉潔癖な政治に期待を寄せる者も少なくありませんでした。しかし、定信の政策は徹底した「禁止」を基調としており、息苦しさを感じる人々も多くいました。
このような風潮を象徴する狂歌が、「白河の清きに魚の住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」です。清廉な白河藩主(定信)の統治は息苦しく、汚職が横行していたものの自由な空気のあった田沼時代を懐かしむ声を詠んだものです。この狂歌は、過去を美化し、ないものねだりをする人間の本質を表しているのかもしれません。
出版の世界においても、蔦屋重三郎はこの時代の変化に翻弄されました。田沼時代の自由で活気ある空気の中で成功を収めた蔦重でしたが、寛政の改革の規制により処罰され、厳しい状況に追い込まれます。このように蔦重は、田沼から定信へと権力者が交代する中で、時代の波に翻弄された人物と言えるでしょう。
(続きます)
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