来年の大河ドラマの主人公「蔦屋重三郎」にスポットを当てたいと思っています。
日本近代史において最も多くの仕事を成し遂げた人物は「渋沢栄一」だと思っていますが、江戸時代で最も多くの仕事をした人物として、私が注目するのは蔦屋重三郎です。
政治的な側面ではあまり関連はありませんが、蔦屋重三郎は出版業に携わり、作品のプロデュースや営業活動も行い、江戸文化の普及に多大な影響を与えました。この人物に対する興味は尽きません。このブログでも今後、蔦屋重三郎について取り上げる機会が増えるでしょう。
まずは、蔦屋重三郎について簡単に紹介します。
蔦屋重三郎の略歴
蔦屋重三郎の主な略歴について簡単に書いていきます。
寛延元年(1750)、江戸吉原(台東区千束)生まれ。
安永元年(1771)、吉原大門に書店を開く。堂号は「耕書堂」。翌年頃から吉原細見の販売を開始、安永3年には遊女評判記「一目千本」を刊行、さらに翌安永4年には、吉原星美の出版に本格的に乗り出す。
安永9年(1780)、黄表紙、往来物の出版を始める。天明元年(1781)頃、狂歌ブームとなり、太田南畝らとの交流が深まる。
天明3年(1783)、吉原細見が蔦屋の独占販売となる。耕書堂が日本橋通油町(日本橋大伝馬町)に進出。
寛政3年(1791)、寛政の改革により、山東京伝の洒落本が取締対象となり、版元である蔦屋重三郎も財産の一部を没収される。
寛政4年(1792)頃より喜多川歌麿の美人大首絵を発行、寛政6年、東州写楽斎の役者絵を発行するが、寛永9年(1797)脚気により47歳で逝去。
まさか大河ドラマになるとは
NHK大河ドラマは、戦国時代や鎌倉時代、あるいは幕末などの「動乱の時期」を扱うことが多く、比較的平和と思われる時代を題材にすることは少ないです。江戸時代中頃を扱ったドラマは、赤穂浪士の討ち入りや徳川吉宗が主人公になったものくらいでした。そのため、蔦屋重三郎が大河ドラマの主役になったことには正直驚きました。
私自身も、江戸時代中頃には大きな興味を抱くことはなく、あえて言うならばこの時代の政治家である上杉鷹山や田沼意次らの動向にそれなりの興味がある程度でした。しかし、重三郎が生きた時代は、まさに田沼意次が政界で活躍した時代と重なります。
蔦屋重三郎については、私もあまり知らない存在でしたが、彼の行った事業などを知るにつけ、がぜん興味を抱くことになりました。大河の主人公になったからでは絶対になく、彼が江戸文化の発展に尽くしたことや、経営者として、商人として超一流であり、こういう人に憧れがあるからでもあります。
その彼を取り上げることにより、彼が関わった文化人の山東京伝、恋川春町、葛飾北斎、東州写楽斎、曲亭馬琴、太田南畝らの文化人はもちろん、本居宣長、平賀源内といった学者などの事績にも触れることになります。ひいてはこの時代を知ることで、江戸文化の神髄に多少なりとも迫れる契機になれるかと思いました。
本屋からスタートし、出版業へ
重三郎は、7歳の時に吉原の喜多川家の養子となり、22歳の時には吉原遊郭の出入り口である五十間道にあった義兄・蔦屋次郎兵衛が営む茶屋の店先で「耕書堂」を開業します。最初は貸本業から始め、後に本の小売りを行うようになりました。当初、彼は鱗形屋孫兵衛が発行する定期刊行物『吉原細見』(吉原の妓楼、遊女、茶屋などを紹介するガイドブック)を販売していました。
それから2年後、重三郎は自ら出版業にも乗り出します。彼が発行した『一目千本』は、絵本形式の遊女評判記で、取り上げられた吉原の遊女や妓楼が制作費用を支払い、宣伝用に配布したものでした。この頃、吉原遊郭は客足が落ちており、危機感を抱えていましたが、吉原文化や格式の高さをアピールし、客を取り戻そうとしていたのです。その手段として、出版物も積極的に利用されたわけです。
重三郎は廓の内情に詳しかったため、出版物の販売をブレーンとして支援し、吉原細見の販売にも乗り出しました。この本は見る見るうちに売り上げを伸ばし、やがて重三郎は『吉原細見』の出版を独占することとなります。
さらに、重三郎は『吉原細見』だけでなく、富本節の正本や稽古本、往来物など、安定した収入を見込める堅実な仕事も手がけ続けました。実は、これこそが重三郎の真骨頂でした。一見すると大胆な商売をしているように見えますが、実際には堅実で確実な商売をしっかりと行っていたのです。このような手堅い仕事が、重三郎の躍進に欠かせない経営基盤となったのです。
戯作者や狂歌人のブレーンを生かす
このように堅実な一面を持つ重三郎でしたが、一方で狂歌連に加わり、狂歌人として作者たちと繋がりを持っていました。これこそが、先の出版人たちを引き離し、重三郎が先んじて伸びていくための出発点だったのでしょう。
重三郎の店は多くの戯作者や狂歌人の集まる場所となっていました。その繋がりの中で、重三郎は朋誠堂喜三二(秋田藩藩士)の戯作を手始めに、恋川春町(駿河小島藩藩士)、太田南畝(蜀山人、幕臣でありながら狂歌師や戯作者、学者としても活躍)、山東京伝(戯作者)など、売れっ子作者たちの戯作や狂歌本(風刺やパロディを盛り込んだ和歌形式の本)、黄表紙を次々と出版しました。
天明3年には、老舗書店が軒を並べる一等地・日本橋通油町(大伝馬町)に出店し、当代筆頭の地本問屋にまで上り詰めました。重三郎が33歳の時で、最初の出版からわずか10年の快挙です。
しかし、江戸文化がピークを迎えつつあった自由な気風の時代、田沼意次の時代が終わり、寛政の改革が始まると、厳しい松平定信の時代に突入します。この時、幕府を批判するような風刺的な出版物に対する自主規制が求められるようになりました。重三郎が発行した洒落本も処罰の対象となり、最終的に重三郎は罰金刑を受けてしまいます。
浮世絵で巻き返しを図る
しかし、重三郎はそれでめげるような人物ではありませんでした。彼は、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった浮世絵の名手たちを見出します。特に歌麿は、重三郎の店に出入りしており、小器用な画工として使われていましたが、やがて狂歌師と絵師をコラボさせる「狂歌絵本」を編み出すこととなり、その絵師に歌麿を抜擢しました。
この頃、美人画の第一人者である鳥居清長が筆を置くという絶妙なタイミングでした。そこで、歌麿を清長の八頭身全身画とは全く趣の異なる新しい画風である「大首絵」でデビューさせたのです。
次に、それまで無名だった写楽を「黒雲母摺」を使い、後ろを潰した役者の大首絵で世に出します。絵の売れ行きは芳しくなかったようですが、「世間の関心を引き付ける」という重三郎の狙いは成功し、そのインパクトは絶大でした。
重三郎の嗅覚とビジネスセンスは素晴らしいものでした。これは単にマーケティングセンスが一流だっただけではなく、彼自身が「これはいい!」と思うことに素直で、それがビジネスに繋がった結果だと言えます。そして何より、重三郎の人間的な厚みがあったからこそ、多くの人々を動かし、大きな仕事を成し遂げることができたのでしょう。重三郎は新たな才能を発掘し、育てることにも尽力し、それが結果として江戸時代後期の浮世絵の隆盛に繋がったと言えます。
最後まで、前へ行こうとしていた
重三郎は、亡くなる2年前の寛政7年(1795年)に伊勢に赴き、本居宣長と対面しています。
寛政の終わり頃から、日本中で和学ブームが起こり、古典や和歌を知らなければ流行の狂歌も楽しめないというニーズが生まれました。この動きを察した重三郎は、書物問屋の仲間に加わり、熱気に満ちた和学に目をつけて宣長に面会し、宣長の随筆集を江戸で販売する許可を取り付けました。
重三郎は、処罰された後も浮世絵の出版に精を出しただけでなく、和学にも手を伸ばし、最後まで「先へ先へ」と進む気概を失いませんでした。書店にみんなの目を引き付け続けようとしたその姿勢は、まさに重三郎の特徴でした。
彼の生きた時代は、元禄時代(1688~1704)の上方中心の文化から、江戸文化の隆盛を迎えた化政文化期(1804~1830)のちょうど中間の時代にあたります。つまり、上方から江戸へと文化の成熟をバトンタッチする役割を担った時代に重三郎は生き、活躍しました。重三郎は、江戸の出版文化のみならず、江戸文化全体の担い手でもあったのです。
彼を「出版プロデューサー」として位置づけるだけでは、彼の真骨頂を伝えきれません。重三郎の実像は有能な商人であり、堅実な経営者でした。そして、彼の仕事で名を残したのは彼一人ではなく、彼を中心に多くの人々がその仕事で名前を残しました。ここに、重三郎の人間としての魅力や器の大きさが見て取れ、彼がいかに傑出した人物であったかが分かります。
この重三郎について、私も学びながら、この紙上で語れればと思います。よろしくお願いいたします。
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