幕末の話、今回は幕末~明治維新においてもっとも欠かせない人物と言ってよい西郷隆盛について取り上げていきます。
清廉潔癖、無欲の人、そんな印象の西郷隆盛ですが、その一方では好き嫌いが激しく、激情家であり、毀誉褒貶が激しい性格だったようです。
幕末、明治維新の立役者の西郷の人物像の真実について迫ることができればと思います。
坂本龍馬が語る西郷
西郷隆盛は、現在でも非常に人気の高い歴史上の人物です。坂本龍馬と並び、幕末の歴史を語るうえで欠かせない存在と言えるでしょう。その龍馬が西郷について語った言葉は、二人と因縁の深い人物によって記録されています。それが勝海舟です。
「坂本龍馬が、かつて俺に、『先生しばしば西郷の人物を賞されるから、拙者も行って会って来るから添書きをくれ』といったので、早速書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきて言うには、『なるほど西郷というやつは、わからぬ奴だ。少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう』といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆職と大誠意にあるのだ」(氷川清話より)
こうした勝海舟や坂本龍馬といった人物たちの証言によって、西郷隆盛の人物像は確立されました。彼は度量が非常に大きい人物として英雄視されるようになったのです。いわゆる「西郷伝説」が形成されたわけです。太い眉と大きな目、そして巨漢ぶりを今に伝える西郷の肖像画も、そのようなイメージを一層強める要素となりました。
西郷は「南洲翁遺訓」に象徴されるように、数々の人生訓を残しています。「児孫のために美田を買わず」という言葉も広く知られています。西郷が語ったとされる言葉は、多くの人々に大きな感銘を与えました。そして、これらの語録によって西郷の人格は理想化されていったのです。西郷が好んだ「敬天愛人」という言葉と相まって、仁愛に満ちた類まれな人格者として、ますます敬愛される存在となりました。簡単に言えば、「西郷どん」としてのイメージが広まりました。
このようにして、実像を超えた西郷像が世間に広まり始めます。茫洋として小事にこだわらない風格を備えた大人物。寡黙でありながら、決断力に富んだ人格。勝海舟との会談を受けて、江戸城総攻撃の中止を即決したエピソードはその象徴的なものです。栄達を極めたにもかかわらず、清廉潔白で私欲がなく、他の維新の功臣とは違って赤貧に甘んじる質素な生活を送ったという姿勢。西郷の伝記も、このような超人的な英傑ぶりを強調する文脈で書かれ、伝説化を後押ししました。
伝説化された人格に大きな期待が寄せられた結果、日本に危機が訪れるたびに「西郷待望論」が浮上するようになったのです。東京の上野公園に立つ西郷の銅像は、これからも西郷伝説を後世に伝え続ける役割を担い続けることでしょう。
だがその実像は…
しかし、そんな西郷伝説を根底から覆す証言も実は少なくありません。佐賀藩出身で、明治政府では参議として同列にあった大隈重信は、次のように語っています。維新後に西郷と接触するようになった大隈は、世間が言うほど西郷を英傑とは思っていなかったのです。
「世人の多くは西郷を目して英傑と称し、豪傑と称すれど、余は不幸にして未だその英傑と称し豪傑と称する所以を知るに及ばず」
同郷の薩摩藩にも、次のような証言があります。「大日本編年史」の編纂に携わるなど、日本の歴史学研究に大きな足跡を残した重野安継は、西郷との交流も深かったが、以下のように回顧しています。
「西郷はとかく相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということを言っていた。そうしてその相手をひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体大度量のある人物ではない。人は豪傑肌というけれども、度量が大きいとは言えない。むしろ度量が偏狭である。度量が偏狭であるからこそ、西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量の広い人のように思っているが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。とうとう敵をもって、それがために自分を倒れるに至った。いったん自分の敵と見た者は、どこまでも憎む。古の英雄豪傑も皆そういうものだろう」
豪傑肌ではあったが、度量が狭かったため、敵も多かった。それが最終的に自らを亡ぼす結果となったというのです。まさに、世間に流布している西郷像を否定する証言と言えるでしょう。
西郷をよく知る盟友の大久保利通は、西郷の性格を激情家だと称しました。西郷は自らのマイナス面をよく理解しており、そのため禅を学び、心を落ち着けようと努めたと語っています。
西郷とは竹馬の友と言える海江田信義も、決して驕り高ぶっているわけではないものの、簡単には人に屈しない性格だと西郷を評しました。血気にはやり、協調性に欠ける頑固者としての一面も持っていたのです。
また、西郷と同年代の藩士で、明治に入って島津家の修史事業に携わった市来四郎も、自分と意見を異にする者と交わることは少なく、いったん人を憎むと、それを長く持ち続けると証言しています。このような性格であれば、西郷と親しい者が限られるのも当然です。西郷を憎む者が藩内に多かったことも、何ら不思議ではありません。同郷人から厳しい視線を浴びていたことは、西郷伝説の再考を促す要因となったのです。
すなわち、「敬天愛人」に象徴される包容力のある人物というのは仮の姿であり、本来は好き嫌いの感情が激しく、敵も多かった人物であったのです。その性格を自分でも理解していたからこそ、表に出さないように努めたのでしょう。今なお世間一般が持つ西郷のイメージは、その実像とは程遠いものだと言わざるを得ません。
一枚岩ではない薩摩藩
そして、薩摩藩は西郷を中心に一枚岩でまとまっているという印象が非常に強い。薩摩藩=西郷というのが定説となっているようだが、それは事実ではありません。藩内の大勢は倒幕路線に異を唱えていました。しかし、西郷は大久保と共に薩摩藩を倒幕路線に舵を切らせることに成功し、維新を実現しました。これは藩内での権力闘争に勝利した結果です。
そのため、藩内で西郷を敵視する者は実に多かった。むしろ、西郷は孤立していたと言えるかもしれません。誰からも親しまれる「西郷どん」の姿は、そこにはありません。それだけ西郷の政治手法が強引であったということですが、それは激情家で好悪の感情が強い西郷自身の性格とも深い関係があるはずです。西郷は好戦的で独創的な傾向が強かったが、その一面は西郷伝説によって覆い隠されているのが現状です。
西郷が明治維新を成し遂げた最大の功臣であることは事実ですが、西南戦争では政府に反旗を翻し、一転して賊臣となりました。福沢諭吉は次のように語っています。
「世論にいわく、西郷は維新の際に勲功第一等にして、古今無類の忠臣たること楠木正成の如く、十年を経て謀叛を起こして古今無類の賊臣とおなり、汚名を千歳に遺したること、平将門の如し」
維新の功臣であり、明治の賊臣である西郷は、維新を境に政治的評価が一変しました。しかし、その人物像は幕末・明治を通じて美化されている側面があることは否めません。では、こうした西郷伝説はどのようにして生まれてきたのでしょうか。西郷伝説の美名に隠された知られざる実像を通じて、幕末維新の真実も浮き彫りにできればと思います。
(続きます)
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