歴史の話ですが、今回は戦国時代の名将であり名参謀とされる黒田如水についてです。秀吉の天下取りを支えたという印象が強いですが、実際にはそれ以外にもさまざまな顔を持つ武将です。
その黒田如水の人物像に迫ります。
幕末の志士たちの如水評
江戸時代の終盤、いわゆる幕末に差し掛かる弘化年間、大和の大儒・谷三山と、京都の儒者・森田節斎(頼山陽の門人であり、吉田松陰の師)とが、高取藩の執政・築山愛静の私邸に会し、五日五晩にわたって筆談を行いました。
この筆談は数巻の巻物にまとめられ、「愛静館筆語」と名付けられた非常に珍しい文献で、その中には古今の英雄を論じた部分があり、黒田如水についても次のような品評がなされています。
節斎
「小早川隆景、蒲生氏郷、黒田如水」
「此ノ三人、孰レガ優ル」
三山
「僕ハ隆景ヒイキ、蒲生コレニツグ。如水ハ少シキラヒノ方也。蒲生ノ勇略ハ隆景ヨリモ、ハゲシキホドナレド、智ハアサキ人也。如水ハ智者ナレド、豊家ノ為メヲモハズ、節義ニ於テカクル事ナリ」
如水は薄情?
朱子学の教養で固められた谷三山の目から見ると、秀吉没後の豊臣氏に対してとった如水の行動については、到底好ましく思えなかったのでしょう。如水は、若いころ、秀吉の与力として中国地方を転戦していた際、秀吉から大いに頼りにされ、秀吉と兄弟の約束まで結んだといわれています。
その如水が豊臣氏の末路に際して冷徹に、もっぱら利己的・打算的に動いたことについて、徳義に欠けると指摘されたのです。利己的・打算的に動いたのは、いわゆる太閤恩顧の諸大名たちのほとんどがそうであったものの、非凡な能力があるとされる如水だからこそ、その点が特に問題視されたのでしょう。
しかし如水にとっては、一度きりの人生であり、己の才腕を存分に発揮する機会があれば、義理や人情にとらわれず、それに賭けてみて何が悪いのかという思いだったのでしょう。秀吉に対しては浅からぬ因縁があるものの、自分が尽くした功績に比して決して厚遇されたとは言えず、むしろ晩年には警戒すらされたため、その点では負い目を感じる必要は全くなかったのではないでしょうか。そして、そう割り切っていたのではないかと思われます。
合理主義者如水
如水は、日本人には珍しい合理主義者であり、常に醒めていた人物であったと言えます。
(余談ですが、この点において、合理的思考が卓越していたものの、最終的には義に殉じた石田三成とは異なる点があると言えます。)
如水は、過去の因縁や義理をいつまでも引きずるような人物ではありませんでした。むしろ、これらをいち早く清算し、自ら信じて理にかなった方向に大胆に突き進んでいったのです。そこには如水なりの計算があり、決断を下した以上は振り返らず、力いっぱい賭けるため、結果がどうであれ、未練がましいことはありませんでした。生き延びるにしても、サバサバしていて後腐れがない人物であったと言えるでしょう。
如水は、当時においては珍しいインテリであり、育ちも良く、冷静に時勢の流れを見守りながら、チャンスがあれば自らの夢を実現しようとする、生きがいのある人生を歩んでいたと言えます。合理性を重んじつつも、浪漫性を備えていた人物でした。ソロバンをはじきながらも、欲に気を取られて前後を忘れることはありませんでした。多様化した現代社会は、乱世と一脈通じる部分があるかもしれませんが、そのような時において、如水のような生き方は意外にも共感を呼ぶのではないかと思われます。
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