浦賀奉行所と中島三郎助の話。浦賀奉行所の創設期の地元三浦半島の住民とのかかわりについて書いていきます。
観聴草
ブラザーズ号の来航について記された「観聴草」と題する文書が、国立公文書館に所蔵されています。この「観聴草」は、旗本の宮崎成身が原本から書き写した文書や収集した文書をまとめたもので、現在176冊が残されています。
宮崎成身は、弘化4年(1847年)に小十人頭、安政4年(1857年)に持弓頭の役職に就いていた旗本で、江戸牛込神楽坂下に住んでいたと伝えられています。また、幕府が設置した昌平坂学問所にも関わり、幕府の外交官として活躍していた林大学頭復斎のもとで、「通航一覧」と呼ばれる外交関係の資料集を編纂したことでも知られています。このような活動の一環として、ブラザーズ号の来航に関する文書を収集したと考えられますが、いずれにしても、初めて来航したブラザーズ号の動向や、それに対する浦賀奉行所や会津藩の対応について、「観聴草」を通じて具体的に知ることができるようになりました。
ブラザーズ号の来航
「観聴草」によると、ブラザーズ号の来航が浦賀奉行所に伝えられたのは5月14日の朝のことでした。来航を通報したのは、廻船荷物の検査を受けるために浦賀湊に入港していた船で、船頭の栄三郎が久里浜沖に怪しい船が停泊していると報告しました。この報告を受け、奉行所はすぐに役人を派遣し、彼らは碇泊中のブラザーズ号へ向かいました。船内では船長のピーター・ゴルドンが地球儀を持ち出してイギリスを指し示し、さらに鉄砲や刀剣類が多数あることも確認されました。
これらの情報は即座に幕府へ報告されると同時に、東京湾の防衛を担う会津藩や白河藩の陣屋にも通達されました。その結果、東京湾は緊張感に包まれ、会津藩が管理する平根山台場では武士が抜き身の槍を携えて警戒に当たり、鴨居の会津藩陣屋からは旗指物を立てた船がブラザーズ号に向けて派遣されました。
激動の時代の幕開けを実感
浦賀奉行所からは、与力や同心を乗せた船が次々に繰り出され、彼らはブラザーズ号を浦賀湊の入口に碇泊させました。「観聴草」によると、ブラザーズ号の動きを封じるために、浦賀奉行所が派遣した80艘もの船が周囲を取り囲み、そのさらに外側を会津藩の「兵船」が固めていたと記されています。また、会津藩は事前の取り決めに基づき、1000人もの農民や漁民を動員し、この際に徴発された船の数は150艘以上に達したといいます。
こうした厳重な警備が続く中、5月18日には幕府から派遣された通詞の馬場佐十郎が浦賀に到着し、船長ピーター・ゴルドンとの意思疎通が可能になりました。馬場は、日本がイギリスの商船と交易することはできない旨を伝え、速やかに出帆するよう求めました。この交渉の結果、ブラザーズ号は5月21日に碇を上げ、東京湾から退去することとなりました。その後のブラザーズ号の動向については不明ですが、5月22日に房総沖を東北方面に向かう異国船が確認されていることから、国後島方面に向かったと推測されています。
ブラザーズ号を目にした人々が何を感じたのかについては具体的な記録はありませんが、「観聴草」には船長のピーター・ゴルドンが伊豆大島や東北地方の絵図を持っていたことが記されています。鎖国下の日本において地図は重要な軍事機密であったことを考えると、商船の船長がこうした地図を所有している事実は、日本人にとって驚きであったに違いありません。ブラザーズ号が東京湾内に碇泊していたのはわずか8日間でしたが、警備に動員された農民や漁民を含め、この出来事は激動の時代の幕開けを人々に実感させる事件であったといえるでしょう。
(続きます)
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