浦賀奉行所と中島三郎助の話。日本近海に西洋の船が現れ始めた背景には、日本近海が捕鯨の場として絶好の地だったことが挙げられています。
捕鯨の為に日本へやってくる
文政5年(1822年)4月29日、イギリスの捕鯨船サラセン号が浦賀に来航するという事件が発生しました。当時、日本近海には西洋諸国の捕鯨船が多数出現しており、日本近海が鯨の漁場として世界的に知られていたため、サラセン号だけでなく、日本各地で捕鯨船の来航や発見が相次ぎました。
太平洋での捕鯨は19世紀初頭に南太平洋で始まり、次第に本格化しました。捕鯨は短期間で日本近海にも広がり、イギリス・フランス・アメリカを中心に多くの捕鯨船がこの海域で漁を行いました。1840年代には漁場がカムチャッカ半島からオホーツク海まで達し、長期間にわたって太平洋で出漁する捕鯨船も珍しくなくなりました。
当時の鯨製品は鯨油と鯨骨(有鯨の歯にあたる部分で、ひげとも呼ばれる)で、鯨油は照明用の油として使用され、場合によってはろうそくに加工されました。一方、鯨骨は婦人の装身具や室内の装飾品、洋傘の骨として利用されました。捕獲された鯨の種類にはマッコウクジラ・セミクジラ・イワシクジラなどがあり、捕鯨の方法は鯨の発見後、大きな船から捕鯨ボートを下ろして鯨を追跡し、手投げや銃で銛を打ち込む方法が取られました。
大型化する捕鯨船
太平洋で活動したアメリカの捕鯨船については『横浜市史』第二巻に分析があり、アメリカの捕鯨船の根拠地であったハワイのホノルル港に入港した捕鯨船が、1824年以降の20年間で総数2000艘に達したことが明らかにされています。
また、当時のアメリカの捕鯨船の大きさは、出漁が数か月にわたる長期のものになるにつれて大型化し、1820年にはアメリカ東海岸のナンタケット港に所属する72艘の捕鯨船の平均トン数が280トンに達したとされています。単純に比較することは難しいものの、日本の「千石船」クラスの捕鯨船が多数、日本近海を航行していたことは間違いないでしょう。
クジラ肉を食べない西洋人
ところで、当時のアメリカの捕鯨船について記した日本人の記録『紀州船米国漂流記』が残されています。この記録は、嘉永3年(1850年)に伊豆沖で難破した船乗りの体験談をまとめたもので、彼らがアメリカの捕鯨船「ヘンリー・ニューランド号」に救助された様子が記されています。船乗りたちの何人かは救助後、捕鯨船を乗り継ぎ、最終的に香港で清国船に乗って長崎に帰国しました。その後、こうした記録が残されたことによって、採用諸国の捕鯨船の様子が現在に伝えられています。
この時、難破した船は紀伊国日高郡薗浦(現在の和歌山県御坊市)に船籍を持つ950石積の廻船で、ミカンを積んで江戸に向かい、江戸から上方へ戻る途中で漂流しました。記録は、船乗りが故郷に帰ってから体験を聞き取った者によって編集され、領主である紀州藩主またはその重臣に提出されたとされています。捕獲した鯨については、「海中で皮をはぎ、肉を大釜で煮て油を取った上で、肉は廃棄している」と記されています。また、日本の船乗りがなぜ肉を食べないのか尋ねたところ、捕鯨船の乗組員は鯨の肉は毒を含んでいると答えたということです。記録は漂流民の体験を記したものであるに過ぎませんが、日本近海を航行する捕鯨船の様子を伝える貴重で興味深い資料となっています。
(続きます)
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