黒田如水について 

戦国時代

歴史の話ですが、今回は戦国時代の名将であり名参謀とされる黒田如水についてです。秀吉の天下取りを支えたという印象が強いですが、実際にはそれ以外にもさまざまな顔を持つ武将です。

その黒田如水についての項目を設け、詳しく語っていきたいと思います。

秀吉の名参謀の印象

まず、黒田如水という人物は「官兵衛」という名前の方が有名かもしれません。そして、その官兵衛時代は、豊臣秀吉の懐刀として、秀吉の天下平定事業に大いに貢献したという印象があります。

その活躍は、秀吉が織田信長の重臣だった当時の毛利氏攻略から見られます。鳥取城攻めでは、兵糧攻めで兵を損なうことなく攻略し、その後の備中高松城攻めでは、城の周囲を水浸しにする「水攻め」を敢行するなど、大いにその智略で秀吉の攻略戦に貢献しました。

如水が最も名を馳せたのは、恐らく本能寺の変後の秀吉の活躍を支えた点でしょう。後に言う「中国大返し」を秀吉が実行できたのは、如水のプランニングあってこそだと言われています。その後の賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の合戦、四国長曾我部攻め、九州攻略戦においても如水は作戦指揮能力を発揮しました。さらに、小田原北条氏攻略の際には、如水が北条氏政と開城交渉を行うなど、天下平定の総仕上げに貢献しています。

如水は、その作戦遂行能力と類まれな策略が優れている印象ですが、それと並行して、相手との交渉能力にも秀でていました。この交渉能力の高さこそが、秀吉が信長の死後わずか8年で天下平定事業を成し遂げた最大の要因の一つだと思います。

秀吉の天下平定の立役者を挙げろと言われたら、内政面で支えた秀吉の弟・豊臣秀長と、外交・戦略面で支えた黒田如水が双璧でしょう。

「外様」だった如水

このように、秀吉の天下統一事業に最大級の貢献をしている黒田如水ですが、外から見れば、秀吉が如水に対して厚遇をしているようには思えません。

秀吉が如水に与えたものといえば、豊前中津城の12万石です。この石高は、秀吉存命中は恐らく変わらなかったと思われます。もちろん、豊後水道や北九州といった西日本、さらには朝鮮半島や大陸への要衝の地を考慮すれば、その石高だけで如水への待遇を推し量ることはできません。

それでも、如水と秀吉の距離は決して近いものには感じられません。天下平定後、如水が秀吉から重用されている印象はなく、むしろ遠ざけられているように感じられます。

これについて私は、「秀吉にとって黒田如水は、所詮外様だったから」ではないかと考えています。

そもそも秀吉は、武士身分ではなく農民であったとされ、当然ながら譜代の家臣はいません。ただ、それでも身内の弟・秀長や、尾張時代からの旧知の仲であった蜂須賀小六、加藤清正、福島正則、さらには近江を領したときに召し抱えた石田三成、大谷吉継など、いわゆる子飼いの武将たちがいました。

こうしてみると、如水はもともと播磨の小豪族であり、元々は小寺氏に仕えていた身分です。秀吉に仕えるようになったのは、織田氏の勢力が播磨に伸びてきた際、如水が「小寺家は織田氏につくべきだ!」と必死に唱えて、織田信長と接触したことがきっかけで、その後秀吉が播磨攻めに着手したからです。

しかも、純粋に秀吉の家臣になったというのも微妙です。というのは、如水は小寺家を離れた後、織田家に直接仕えていた可能性もあるのです。つまり、信長に仕え、その信長の家臣である秀吉の「与力」として配されていた可能性もあります。いわゆる秀吉の直臣であったかどうか、本能寺の変で信長が倒れるまで異なっていた可能性さえあります。

そのような如水を、もしかしたら秀吉はあまり親近感を抱いていなかったのかもしれません。いずれにせよ、如水は秀吉にとって「外様」のような立場で終始していたのではないかと思います。

天下を本気で狙っていたか?

黒田如水が非常に人気のある武将である理由は、おそらく秀吉の死後、関ヶ原の戦い前後の彼の行動にあるのではないかと思います。

どういうことかというと、如水は、いわゆる東軍である徳川家康陣営と、西軍と言われた石田三成や毛利・宇喜多陣営との対立構造を縫って、第三勢力として君臨し、両者が対立で疲弊したところを撃滅しようとしていたとされています。

関ヶ原合戦があった慶長5年(1600)の当時、基本的に如水は徳川家康側で活動していました。これは、如水の嫡男・黒田長政がかなり積極的に家康に接近し、関ヶ原の合戦では東軍の主力として大活躍していたこともあります。

ただ、ここで純粋に「息子が家康についているから、俺も家康に協力する」となるかどうかは微妙です。というのは、関ヶ原合戦時においては、親子で陣営が分かれているケースが多かったからです。例えば、真田家は関ヶ原合戦前に、父・昌幸と次男・信繁(幸村)は家康と戦い、西軍に属することを決め、代わりに嫡男・信之は家康側に属させています。他にも、九鬼家や鍋島家、蜂須賀家などでも親子で陣営を分けています。こうした親子間の陣営分裂は、家を守るための必死の策だったのです。

それに比べると、私は如水が「長政が家康につくから、俺は反家康で行く」と考えたとは思えません。如水自身も基本的には家康側で行動しています。ただし、戦局によってはその判断がどうなるかは分かりません。つまり、場合によっては西軍側に寝返る、あるいは先に紹介したように、第三極として周囲の勢力を束ねて上方に打って出ることもあり得たのです。

如水ほどの武将が、この政局において、たとえ選挙区が不利になってでも愚直に家康側で奮戦したとは思えません。気を見るに敏な男である如水なら、事の次第によっては、九州の諸大名を統合して打って出たかもしれません。そして、毛利氏と交渉し、一気に大坂城に入り、家康に妥協する兵をあげる…というような展開もあり得たのです。

これはあくまで想像の域を出ませんが、こうした可能性を感じさせるほど、黒田如水の軍略は優れていたと言われています。

藩祖長政が父・如水を崇め奉った可能性

関ヶ原合戦後、黒田家は長政の活躍によって、福岡藩52万石の大大名となります。そして、黒田家は幕末まで福岡藩主としてその地位を継続していきました。

福岡藩の初代藩主はあくまでも長政です。長政もまた名将ではありますが、名声の点で見る限り、父・如水に比べると見劣りする部分があるように思えます。しかし、これには実は長政が必要以上に父・如水を崇め奉った可能性も考えられるのです。もしそうだとしたら、ここまで語ってきた如水の名将ぶりも、実は脚色されている部分があるのかもしれません。

戦国時代を勝ち抜いて、江戸期に大名として名を残した家では、初代となる武将を「神のごとく」奉る傾向が強いです。例えば、天下人である徳川家は、初代・家康を「東照大権現」として奉っています。

また、米沢の上杉家では上杉謙信を、加賀の前田家では前田利家を、強烈に奉っています。初代の人物を「神」に近い存在として奉ることで、藩の運営や領地経営をスムーズに行おうという意図があったと考えられます。黒田家もその例外ではなかったでしょう。したがって、如水の名将伝説については、ある程度割り引いて考えなければならないかもしれません。

それでも、私は如水をひいきにしており、如水が類まれな名将であり、関ヶ原の戦いの際にはもしかしたら天下を狙っていたのではないかと思っています。もしそうだったら、家康に勝つ可能性もあったのではないかと想像してしまいます。そう想像させるだけの魅力が、黒田如水には確かにあったと言えるでしょう。

その如水の生涯や人物像、彼の事業などについて、これから書いていきたいと思います。

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