河井継之助 その人物 3⃣ 備中遊学

幕末史

幕末の長岡藩家老・河井継之助の人物像について語っていきます。

継之助、遊学をする

河合継之助が人物を大きくするために非常に役立ったと考えられるのは、やはり遊学であったと思います。継之助は何度か江戸に出ており、江戸では斎藤拙堂、古賀茶渓、佐久間象山などから教えを受けていました。遊学という言葉は「学に遊ぶ」という意味であり、遊び半分で学問をするというふざけた意味ではなく、学問を楽しんで行うこと、心から学問に打ち込み、学びを楽しむということです。

継之助は遊学にかなり長い時間をかけました。その中で最も重要な意味を持つのは、33歳の時に備中松山に行き、さらに四国や長崎を旅行したことです。33歳という年齢は、現在でもかなり遅いと感じられるかもしれませんが、当時は15、16歳で元服するのが一般的であったため、非常に遅い遊学でした。しかし、その年齢になってもなお学問修業をしようとする継之助の考え方には、やはり遠大な計画が秘められていたのではないかと思われます。

「実学」を志した

継之助のいう学問とは、単に知識を得ることではなかったはずです。そのようなことは二の次、三の次であり、むしろ実際の政治や経済、実業に学問をどのように応用するかということが重要であったと考えられます。つまり、大所高所から物事を見て見識を磨き、先を見通して対策を立てることが求められたのです。そして、世の中の実際的な日常の出来事に、どのように適用すればよいかを学ぶことが目的でした。

その継之助が学んだ備中松山藩には、藩政改革に邁進した山田方谷という人物がいました。方谷は陽明学を学び、実際に自らの学問を藩政に応用して、財政・軍政の改革や文教の刷新において次第に力を発揮した人物です。継之助は江戸で学んでいる間に、方谷の人物に関する噂を耳にし、全国三百諸藩の中で、わずか5万石、備中の山奥にある板倉藩の山田方谷を師と仰いだのでした。

山田方谷に憧れる

そして、留学の目的についてですが、第一番目には山田方谷が実際に松山藩政で行った改革を学び取ることが挙げられます。次に、第二番目の目的として、東海道を旅し、沿道の名所旧跡を訪れることがありました。これも将来、事を成す際に非常に役立つだろうと考えられたのです。各地にはその土地独特の風習があり、また、藩ごとに異なる事情があるため、その藩における藩侯が人民に対して生殺与奪の権を持っていることから、藩政を直接見聞きすることができるという点も重要でした。

そのため、長岡にいる父親に留学の許可を求めました。そして、父親から50両の金を送ってもらい、それを懐に松山へ向かうこととなりました。江戸を出発したのは安政6年の6月7日でした。旅行中には、面白い話がいくつもあります。また、この遊学を機に長崎まで足を延ばしており、その間に見聞きしたことは、後の自分にとって大いに役立つものとなるでしょう。

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