今日は江戸時代・幕末に活躍した坂本龍馬についてお話しします。龍馬は、現在でも日本史上最大級の人気を誇る人物であり、幕末史を語るには欠かせない存在です。
しかし、彼の実像は、僅か33歳の時に暗殺された経緯もあって、多くの謎に包まれています。そこで、坂本龍馬について語る項目を作りました。まずは、龍馬の大まかな特徴についてお話しします。
浪人の自由さと不安
明治維新は、日本史上まれに見る代表的な変動の時代とされ、多くの人物がその表面と裏面で活躍しました。京都朝廷、江戸幕府、そして薩長土肥の革新的な志士たち、これに対抗する東北諸藩の俊秀たちを挙げればきりがありません。公卿や幕臣、諸藩の志士たちを含め、維新の功労者が多いことに目がくらむ思いですが、その中の一人が坂本龍馬です。龍馬に関する伝記や評論、伝説や推理は、現代人にも圧倒的な興味と関心を持たれています。史学的な視点や政治史的な面からも、彼の行動は複雑多彩であり、人間としての生涯だけでなく、文学的な面からも様々に観察されることでしょう。
坂本龍馬は、三条実美や岩倉具視のような京都朝廷の公卿でも、勝海舟や大久保一翁のような優秀な江戸の幕臣でもなく、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の吉田松陰や高杉晋作、また土佐の後藤象二郎や板垣退助、肥前佐賀の大隈重信や江藤新平、副島種臣のように雄藩をバックに活動した闘士とも考えられません。彼は土佐を脱藩した一介の浪人です。
一介の脱藩浪人であったからこそ、龍馬は独自の自由を持ちました。藩の保護がなく、生活の保証もないため、生活の道を求めざるを得ず、時には生命の危険に身をさらさなければなりませんでした。そんな立場で国事に奔走し、死生の線を越える必要があったのです。苦難の道ではありましたが、彼はあえてその道を選びました。伏見寺田屋で九死に一生を得たことや、京都近江屋での刺客の襲撃で不慮の死を遂げたことは、その選択を実証するものです。変幻出没、数奇な生涯を送った彼にこそ、人々の関心が高まるのでしょう。
武芸者として
坂本龍馬は、幕末の剣客の一人として後世に知られていますが、果たして彼は本当に強かったのでしょうか。伏見寺田屋での活躍や京都近江屋での壮烈な最期がドラマチックに伝えられていますが、もし本当に強ければ、あんなにあっけなく斬られることはないという意見も出てくるでしょう。ここで、剣客としての龍馬を考察してみたいと思います。
彼は北辰一刀流の千葉定吉に学んだ逸足として有名ですが、安政5年(1858)3月に受けた同流の「長刀兵法目録」には、定吉の長男重太郎のほかに佐那、里幾、幾久の三女子も名を連ねています。これは少し異例で、千葉道場が女性を軽視していなかったのではないかとも思われます。もし龍馬にフェミニストの一面があったとするなら、千葉道場の影響を受けていた可能性もあります。この点でも、千葉道場について知っておく必要があります。
龍馬は北辰一刀流のほかに小栗流和術も修業しており、年譜によると、嘉永6年(1853)3月に師匠の日根野弁治から「小栗流和術兵法事目録」を伝授され、安政元年(1854)閏7月には「同流兵法十二か条・同二十五か条」を受け、文久元年(1863)10月には「同流兵法三か条」の免許を取得しました。つまり、武芸に関しては北辰一刀流よりも小栗流和術に多くの時間をかけたことになります。
文久2年(1862)正月には、長州萩の修業館で少年剣士と立ち会って三本とも撃ち込まれた際、知人が不審に思ったものの、龍馬は「拙者が弱いから負けたのだ」とあっさり答えたそうです。また、江戸で和術家信田歌之助(水戸藩士)を訪ね、指南を求めたところ、三度首を絞められて失神しましたが、蘇生後には「先生、もう一度」と稽古を求めたと伝えられています。
かつては佐久間象山の砲術門下生となり、勝海舟の下で海軍術を修業したことも有名です。これらの経験が、龍馬の人間形成にどのように役立ったかは興味深い課題です。明治維新という歴史的な舞台で不滅の活躍をした坂本龍馬を一武芸者や兵学者として論じるのは至難であり、もっと大きな視点からその不可思議な足跡を検討する必要があります。
思想家と言えるか
一部には、先進的な思想家として坂本龍馬を評価する人もいます。日本を近代国家へと導くために立憲議会説を提唱した先駆者として、「船中八策」が取り上げられます。確かに、一武芸者や一兵学者として見るよりも、ずっと進歩的な見解です。しかし、果たして龍馬はそれに相当する思想家だったと言えるのでしょうか。彼の修業経歴を考えると、国学や儒学に精を出した形跡はなく、むしろ剣術家や武芸家としての側面が際立っています。しかし、彼の文章や文字を見ると、決して凡庸な人間ではないことがわかります。龍馬には不思議な魅力があるのです。
文久2年(1862)3月に脱藩した際、友人の平井隈山が在京の妹に送った手紙の中には「龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時々まちがひし事も御座候」と書かれています。これは京都の三条家に勤仕する妹への警告ですが、なかなか含みがあり、考えさせられます。これを見ると、龍馬は読書家ではなかったことがわかりますが、常識的に見ると間違った行動に出ることも多かったようです。彼は奇想天外な非常識な考えや行動をすることがあったのです。
しかし、それこそが龍馬の真骨頂なのです。脱藩や浪人生活からの行動は、一般には意外なことが多かったとされています。攘夷派でありながら西洋式の海軍論を学び、神戸海軍操練所の創設に奔走しました。討幕派でありながら戦争を否定し、将軍の政権奉還論を提唱し、立憲議会制度を考えて有名な「船中八策」を起草しました。彼が一体何を考え、どう行動しようとしていたのか、旧交の同志でさえ目を見張るばかりです。その間違った発想や行動が、龍馬の本領だったのです。
将軍の政権奉還後も、龍馬は「世界の海援隊」建設を提唱し、北方開拓論を急務としてその実現に執心しました。本当に不思議な人間です。確かに龍馬は読書家ではなかったかもしれません。しかし、だからといって無学者と決めつけるべきではありません。慶応3年(1867)の春か夏、龍馬が書いた手紙の中には、「当時天下の人物と云へば、徳川家では大久保一翁、勝安房守、越前では光岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門、肥後では横井平四郎、薩摩では小松帯刀、西郷隆盛、長州では桂小五郎、高杉晋作」とあります。いずれも当代の生ける傑物たちです。龍馬は彼らの意見を聴き、その風格に触れて影響を受け、自らの指針としたのです。ここに述べたのは文書や文献に基づいていますが、ますます発展する龍馬の知識がどのような幅を持ち、どう展開するかは想像するだけで恐ろしいほどです。だからこそ、龍馬への興味は無限に湧いてくるのです。龍馬が今でも絶大な人気を誇るのは、こうした点にあるのではないでしょうか。
このような坂本龍馬の33年間の生涯の足跡と伝承について、ぜひ考察していきたいと思います。
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